「お笑い」日記

最終修正日 2002年3月27日

芸人さんの敬称略

2000/6/13 水曜日

値段が値段だけに悩みに悩んで購入したCD8枚組の「上方漫才黄金時代」に収録された中田ダイマル・ラケットの漫才「僕の漂流記」を毎日飽きもせずに聴いている。

中田ダイマル・ラケットには「3秒に一度笑わせる爆笑王」とか「漫才の中興の祖」とかいう形容がつくが、私が物心ついたときには、すでにパワーを失って落魄した芸人であった(注)。幼い頃その名前に違和感をもったのを覚えている。どうして「ダイマル・ラケット」なのか?「ダイマル・ソゴー」なら(とくに大阪の人間なら)わかるのだがと。

ダイ・ラケをまったく凄いと思ったのは、ずいぶん前にNHKラジオの「懐かしの漫才」特集で「地球は回る・目が回る」を聴いたときだった。これは天動説・地動説論争である。学校やニュートンの権威にたよるラケットの説よりダイマルがあくまでも自分の感覚を信じて繰り出すへ理屈のほうがよっぽどもっともらしい。

「僕の漂流記」でカッパにサンゴをとらせて大儲けするという話

ダイマル:「海にはカッパがおるやろ」
ラケット:「そらおる」

想像上のカッパを「そらおる」と一言で片づけるところ、ダイマルも恐ろしい。

最近の漫才は自分たちのキャラや私生活をネタにしたものが多いが、もっと「フィクション」の可能性を追及してもよいのではないか。
宇宙開発をめぐり超大国が姑息な陰謀をめぐらし、労働に疲れたカッパが海にうつろに漂い、ジャングルで象が卵を産み落とし、凶暴な電気入れ歯があらゆるものを噛み砕いていく--そんな壮大なイメージを聴き手一人ひとりの頭に咲かせる、そんなファンタジックな仕事をダイマル・ラケットはセンター・マイク一本でやってのけたのである。

(注)--私の年代でダイ・ラケに同時代的に接することができたのは、朝のラジオ番組のコマーシャルでやってたショート漫才ぐらいだったと思う。もうすっかり忘れたが、「あんさん、別れなはれ」で有名な融紅鸞の「悩みの相談室」前後の番組ではなかったか。


2000/10/15 日曜日

大須大道町人祭へ行く。

午後4時15分ごろ、万松寺で「猿回し」をみる。3年連続してみている。昨年、一昨年と寸分違わぬ出し物で、去年みたのがつい先日のことのように思えてくる。

ふれあい広場でも大道芸のパフォーマンスをやっていた。人の垣根ごしで少ししか見れないが、すぐに芸人が山本光洋だとわかったのは、さすが元静岡市民である。

レトロ気分の「二都玉」で夕食をすませて、ふたたび万松寺へ。鏡味小仙社中の江戸太神楽がはじまるところ。頭の上で獅子舞の頭をカチカチとやってもらう。7時からのパフォーマーが目当てで時間つぶしのつもりでこの場に来たのだが、次から次へと目先を変える曲芸が繰り出されてすごく得した気分になった。

サンキュー手塚が見れた。昨年の大道芸ワールドカップIN静岡の優勝者で一度みたいと思っていた。名古屋に移動して大道芸ワールドカップに行きづらくなったのですごくラッキーだった。江戸神楽が終わるやいなや女の子3人組がさっと前の場所を陣取った。人気があるのだな。パフォーマンスの途中にもネタのリクエストの声がとんだ。サンキュー手塚の芸はあまりにもバカバカしい。あまりにもバカバカしすぎてツボにはまるとてつもなく可笑しい。「うめぼし」のネタでは、次の来るべき歌のサビの部分を期待して待つ自分に気づいた。


2000/10/25 水曜日

漫才Tour://ますだおかだ.アメリカザリガニ.オーケイ.co.jp(名演小劇場、19時開演)へ行く。

NHK爆笑オンエアバトル常連組の松竹三羽ガラス・ますだおかだ、アメリカザリガニ、Over Drive (Over Drive は最近、失速気味だけど)のうち、Over Drive は不参加になり、常連四天王の一端に育って欲しいオーケイが加わっての3組の漫才があった。

名古屋ではオンエアバトルぐらいしか若手の漫才を見る機会はないから、認知度の面でオーケイは不利な立場であったろう(といっても過去にオンエアされたこともあるのだが)。最初のつかみの部分は演者も観客も瀬踏み状態であった。しかしデートのネタに入り、彼女役の小倉が彼氏役の小島をふりまわすようになってから俄然面白くなった。小倉のロボットのような無機質なしゃべりと無表情さが「彼女」のハチャメチャさを倍増させていた。ギャグも畳みかけるようにでてきてよかった。必要なのは「受けないギャグ」を思い切って捨てる勇気だろう。

アメリカザリガニは「コント」のほうが面白いと思う。彼らは「冷静・不活性」vs「熱血・ハイテンション」のキャラがすごく強みであるが、漫才では平井がときどき柳原のほうにひきずられてしまうときがある。コントなら自分たちのキャラをより徹底的に先鋭化した個性に身を包んでテンションの落差を微塵たりとも動かさずに演じきることができるので、そのほうが面白いと思うのだがどうだろうか。

ますだおかだは人の心の中の笑い袋をこじあける術を心得ているのだろうか。ずっと涙を流しながら笑っていた。現役の漫才師で今一番見たいのは誰かと尋ねられたら私は「ますだおかだ」と答えるだろう。「東京ボーイズ」もいいけれど。


2001/3/17 土曜日

愛知県図書館で大阪ゲラゲラ学会編「もう一つの上方演芸」(たちばな出版)という本を見つけ借りる。序の「はじめに」が刺激的であるが、巨大な吉本興業の前では蟷螂の斧の感もなきにしもあらずか。

気になっていた吉本、松竹以外のプロダクション、とくにケーエープロのことがわかったのがうれしかった。「梅田トップホットシアターの芸人」=「大宝芸能所属」ではないこと、また毎日放送の番組を司会していた夢路いとし・喜味こいし(がっちり買いまショウ)、若井はんじけんじ(ジャンピングクイズ)、海原お浜小浜(千客万来)の誰もがその当時松竹芸能所属でなかったことがわかり昔の誤解を改めてくれた。

梅田コマの横にあった「コマモダン寄席・トップホットシアター」の前を何度か通ったことがある。馴染みの芸人さんの名前が掲げてあったが、なんとなく胡散臭そうな感じがして私には近づきがたかった。「コマ新喜劇」や「夜の大作戦」のイメージから「エロネタ」ばかりやっていそうに感じたからだろうか?でも日曜の「お笑いトップホット」はテレビでしっかり見ていた。トップホットシアターに出ていた芸人さんで記憶に残っているのは、漫才ではなんといっても夢路いとし・喜味こいし、それから海原千里・万里、若井小づえ・みどり。「ヒットでヒット、バチョンと行こう」でコメディNo1と一緒にDJをやっていた「ぺけやっこ(?)」の服部三千代、落語では桂朝丸、新喜劇は奥津由三が主役で、赤井タンク、阿吾十郎、中山三吉、西田トキコがいた。

吉本興業と松竹芸能は1970年代前半にはまだ拮抗していた。吉本では「桂三枝」、「横山やすし・西川きよし」、「コメディNo1(前田五郎・坂田利夫)」、「中田カウス・ボタン」、松竹では「レツゴー三匹」、「正司敏江・玲司」らが人気者であった。そのなかでも子どもの間では「笑福亭仁鶴」の人気が絶大で、私も仁鶴さんなしでは夜も日も明けぬという状況であった。この頃から吉本は毎日放送の「ヤングOH!OH!」などで若者層を引きつけることに成功して勢力を伸ばす一方、大いなるマンネリに陥った松竹は衰退し続けてついには神戸松竹座、角座を閉鎖し、一時芸人さんに舞台を供給できない事態にまでなってしまった。

松竹にも実力のある若手(当時)はいた。若井ぼん・はやと、浮世亭三吾・十吾、船仁のるか・喜和そるか、ちゃっきり娘、はな寛太・いま寛大、酒井くにお・とおる、横山たかし・ひろし。寄席芸人然としてタレントという言葉は似合わなかった。ところで「まかせなさい」というギャグは横山やすしのものだと思っている人が多いが、もともとは若井ぼん・はやとの若井ぼんのギャグである。

これからはインターネットや多チャンネル時代のテレビが多様な情報を発信し、人々をいろんなところへ向かわせる契機を与えるだろう。寄席にしても不定期のライブにして何も知らなければ箱の中に入りづらいものである(私のように気が弱い人間にとってとくにそうである)。しかしなにがしかの情報があってなにか面白いことをやっている、そうでなくても極端にいえば、少なくとも身の安全が確保されることがわかっていれば入ってみようという気になるかもしれない。地上波のテレビに頼らなくても多くの情報を入手できる時代だからこそ私たちが楽しめる場所の選択肢として寄席にもがんばって存続してもらいたい。テレビにでているタレントはあくまでもサンプルであって、テレビには出ていないけれど面白い人、綺麗な人、歌のうまい人はいっぱいいるのである。その気になれば私たちはそうした人たちの芸を楽しむための手段をいくらでも見つけることができるのだ。世間の人は知らないけれど自分にとってお気に入りの芸人さんがいるというのも素敵ではないか。

「もう一つの上方演芸」を読んで昔のことを思いだしてみた。静岡の大道芸ワールドカップに出演していた好田タクトさんが漫才や吉本新喜劇などで上方演芸に浸かっていた人とは知らなかった。


2001/4/4 水曜日

私にとっての三大お笑い芸人は、藤山寛美、桂枝雀、中田ダイマル・ラケットである。以前書いたようにダイマル・ラケットの漫才はほとんど見ていない。漫才では横山やすし・西川きよしを挙げるべきなのかもしれない。しかしCDやラジオの懐古番組で聴く漫才の純粋な面白さを知り、それと私より年配の人が「ダイ・ラケの漫才おもろかったでぇー」というのを耳にするにつけ、ないものねだりをする子供のようにダイ・ラケに憧れる。そして私は藤山寛美、桂枝雀と同時代を生きることができて本当に幸せだったと思う。

藤山寛美の芝居を一度だけ生で見たことがある。大学4回生のとき大学の友人たちと 藤井寺球場へ近鉄バッファローズ対西武ライオンズの試合を見に行く予定で難波まででたところで野球が雨天中止(といってもそのときは雨は上がっていたのだけれど)であることがわかり、チケットの払戻金を一部の糧に道頓堀の中座で松竹新喜劇を見ようということになった。劇場に着いたときはほぼ満席だったが、そのことに関わりなく私たちの席はもちろん一番安い席だったので2階の奥の方であった。狂言は老漫才師夫婦の矜持と悲哀を描いた「鼓」であった。寛美だけがマイクでしゃべっていた。まだ亡くなるまで10年近くあったのだが当時から苦しかったのだろうか?今にしてはよく見ておいたものだと思う。

私もさすがに物まねの人がよくやる「あのぅモシモシ、おとうさんですかァ」の時代の藤山寛美は知らない。しかし一番面白い時期の藤山寛美を見れたと思う。私が小学校の高学年の頃の松竹新喜劇は寛美以外に小島秀哉、小島慶四郎、八木五文楽、中川雅男、酒井光子、曽我廼家鶴蝶、大津十詩子、四条栄美、月城小夜子といった実力派で固められていた。伴心平という人は悪役や親分の役が似合う強面だったのに、寛美にいちびられて思わず笑いだすシーンは今思い出してもおかしい。

私にとって松竹新喜劇が本当に面白かったのは千葉蝶三郎が舞台に立っていた頃までである。あの飄々としてとぼけた雰囲気、寛美にいじられてものれんに腕押しのようなものあたりの柔らかさは絶品であった。千葉蝶三郎が亡くなった後、代わり役といっていいのだろうか博多淡海(二代目)が入団したが、二人の確執が伝えられたりこのころからだんだんと寛美の独裁色が強くなった。やはり面白いことは面白いのだが寛美のメッセージ性の強さに辟易することもしばしばあった。

ちょっと批判めいたことを書いたが、それでも藤山寛美は不世出の喜劇役者なのである。演目をその日の客にアンケートをとって決める「お好みリクエスト芝居」や芝居の最後の展開を3通り用意して、どれがよいかを客に選んでもらうという実験的試行に挑戦した、せめてそうしたことに対してだけでも、正統な演劇史に名前を残してほしい人である。

藤山寛美という役者がおり、「人生双六」、「愚兄愚弟」、「はなの六兵衛」、「銀のかんざし」、「大人の童話」、「裏町の友情」などといった優れた狂言があり松竹新喜劇は一つの奇跡のようであった。


2001/9/11 火曜日

歩いても歩いても東大駒場キャンパスから抜け出せない。さすがに東大は懐が深い。ようやくキャンパスから抜け出し住宅街を右往左往するうちに下北沢に着いた。 情報誌で見つけた「だるま食堂の日常音楽コント・暮らしのト長帖」(「劇」小劇場、7時半開演)を見るためだが、一人だったし、おまけに見知らぬ町にいるので劇場の受付でチケットを買うだけでもドキドキしてしまった。 開演まで時間があったので駅前の通りをぶらぶらする。どこまでいっても商店が続くので驚いた。下北沢は懐が深い。(暗くてよくわからなかったので同じところをぐるぐる回っていたのかもしれない)

「だるま食堂」の予備知識はまったくなかった。100人ぐらい収容の小さな会場だし、隣の人が出演者にメッセージを書いていたので、ひょっとしたら回りの人は「だるま食堂」の親戚や知り合いばかりではないかと不安になった。会場は満席だった。係の人が「お客様の中で劇場を間違えて入場している方がいませんか。」と本多劇場のチケットの半券をちらつかしながら呼びかけたので開演前というのにひとしきり盛り上がった。

「だるま食堂」という名で登場したのは推定年齢30ー50歳(警察発表のようだな)のごく普通の(舞台向かって左の人は少々エキセントリックだが)小学校の父兄参観に行くと必ず見かけるような女性3人組だった。それこそママさんコント・クラブ'ではないかと思えるぐらい素人の集団に見え、ますます「大部分の観客=親戚・知人」疑惑が私の中で深まった。しかし2つめのコントまででそうした疑惑は消え、涙が出るぐらい笑ってしまった。隣の人も腹を抱えて笑っていた。

内容は音階の数に合わせたのか「ママさん音符クラブ」、「音楽のないレストラン」、「明るい教師になろう」、「きゅうくつな服」、「万引き」、「糸問屋おかみのお披露目」、「父母劇の主役は誰」の7つのコント(タイトルは私がかってにつけたもの:例によってネタは明かさない)と「ラクラクお暮しシスターズ」のコーラス。

面白かった。外観にまがうことなく「安心のある笑い」を提供していた。試着室で砲丸投げをするという無理な設定や「万引き」で店長と警備員の警察につきだすのつきださないのとのやりとりに合わせて犯人がイスを持ち上げたり下げたりなどする理由がわからない(犯人は刑務所に入りたいのだから、店長が「警察を呼ばない」と言えば店長に殴りかかろうとイスを振り上げ、警備員が「警察を呼びましょう」と言えば下げるというのならわかるのだがそのようには見えなかった)といった気になる部分もあったが、全般的に老若男女がそろって楽しめる笑いのコントに仕上がっていた。痛々しさを感じさせずにボケたり貧相な雰囲気を出せる左側の人は貴重な存在だ。多分、東京のコントによくある上京したての田舎者をこの人に演じさせると絶品だろうな。

 初めて訪れ地理もよく掴めていない土地で楽しい2時間を過ごすことができた。東京は懐が深いなと思った。


2001/12/27 木曜日

しばらくこの日記を更新しなかった。8月に浪花座のお盆興行に行ったので、そのことを書こうと思ったまま放っておいたら、突然「浪花座」閉館というショッキングなニュースが飛び込んできた。松竹芸能のホームページには「演芸の灯はともし続ける」べく道頓堀での興行を続けるとしてるが、現時点で浪花座に替わる演芸場についての言及がない。角座閉鎖時のように芸人さんに舞台を供給できない事態がしばらく続くのではないかと心配である。これを機会に何人かの芸人さんが舞台から消えることを危惧する。


2002/1/29 火曜日

落語家や漫才師が語りはじめてから最初の笑いが起きるまでの少しはりつめた空気の時間が好きだ。いつ笑かせてくれるのかとじっと話に耳をそばだてている客とうけるのかどうか不安をおぼえながらせっせと話を作り上げていく芸人との緊張がつづく時間帯。ふつうの芸人ならばほんの数秒で終了する時間がとても大切に思えてくる。

だから昔の桂三枝のように「いらっしゃーい」といきなり緊張関係を壊すようなのはとても困る。品川庄司の「しながわです」もとても困る。あれがなくても十分面白いのに。

ほかに困るのはイタイタしい芸人。思わずガンバレと応援を送りたくなるようなのは、つらくって気楽に見てられない。一昔前なら春やすこ・けいこや桂春輔という人たちがイタイタしかった。でも今いちばんイタイタしいのは授業をしているときの自分だ(まぁ私は芸人ではないけれど。)


2002/3/27 水曜日

新宿末広亭に足を運ぶのはこれが2度目である。2年前の春、学習院大学での学会のおりである。ある委員に任命されたばかりに一日の講演が終わっても他の人と食事や飲みに行くことができず、会議の後ぶらっと立ち寄ったのが最初。そのとき東京の寄席は笑いに行く場所ではなく話を聴きに行く場所だと知った。それでも「東京ボーイズ」と「ボンボンブラザーズ」には死ぬほど笑った。私のななめ前に座って抱腹絶倒を絵に描いたように体を捩りながら笑っていた若者がいたのも印象に残っている。

 今春も末広亭に足を運んだのもひとえに東京ボーイズ見たさである。最初見たときはひたすら笑いっぱなしだったので、二回目で間の取り方のうまさと無理のない展開に気づいた。とにかく登場して3人が舞台に並んだだけで可笑しい(ただ3月27日の舞台は2人で立っていた)。向かって右からウクレレを持って意気軒昂としている仲八郎、貫録がありそうでなさそうなアコーディオンをかかえた旭五郎、ついでにいるよという感じでへナっと立ってる三味線の菅六郎へのグラデーションがなんともいえない。なにか赤塚不二雄のマンガっぽい。三人の芸はまずテーマソングを唄った後、音楽家然とした気品のある顔立ちの仲八郎が「これから演奏します曲は」といって、クラシックの名曲であったり、若者向けの最新の曲であったりする曲目をずらっと並べ終わった後、旭五郎がそっと菅六郎に「こんなの弾けるかい?」とつぶやきかけることで始まる。それからいくつかネタが続き(この部分が気になる人は是非、実物を見てください)、なぞかけ問答がトリネタである。「東京ボーイズという文字をなぞかけ問答でときまする。種を蒔かない畑です。いつまでたっても芽が出ない」からテーマソングに続けて終了する。が、もうりっぱな大輪の花であるので最後の部分をもっとポジティブなものに変えたほうがよいと思います。

 それにしてもこの夜の末広亭は代演が多いのに辟易した。夜の部の演者のうち4名が交代した。これでは東京以外の地方からたまにしか訪れることしかできない客に対して失礼であろう。お目当ての春風亭柳昇も休演で、代演者が登場したとき客席からはさすがに「あれっ」という声が漏れた。いまや日本でただ一人しかいない柳昇を見ておきたかった。寄席からの帰りに立ち寄った書店で偶然に一冊の本を見つけた。題名は「落語家柳昇の寄席は毎日休みなし」

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