11月の記録

運転免許取得 〜筆記試験編〜(11/1/2000)
突然だが問題である。日本の法規と良識にしたがって答えてみて欲しい。
問題1. 路面電車について、次のどれが正解ですか?
  1. 路面電車は、交通信号を無視できる。
  2. 路面電車の追い越しは、いつもあなたの右側から。
  3. 路面電車には、他の車と同じ責任はない。
問題2. 歩行者が道路の真中を横断している。この時
  1. 常に歩行者を優先させる。
  2. 横断歩道を渡っていれば優先させる。
  3. あなたの車を優先させる。
問題3. 左車両と同時に交差点に着いた時、どちらが先に進めますか?
  1. あなたの左側の車が先に進める。
  2. 誰でも曲がる合図を出している人。
  3. あなたが先に進める。
問題4. 同車線を走っている自転車に注意する。なぜなら自転車は
  1. 対向方向から向かってこなければならないから。
  2. 優先権があるから。
  3. 同車線を共有できるから。
問題5. 駐車している車に衝突し、持ち主を探せない。あなたが しなければならないことは?
  1. 帰宅後保険会社に連絡する
  2. 持ち主が帰るのを待つ。
  3. その車にノートを残す。
問題6. あなたが道からはずれて、車を追い越すことができる。
  1. あなたが運転しているのと同方向に二車線、またはそれ以上あるならば
  2. 絶対に出来ない時
  3. 前の車両が左折している時
問題7. 車の速度について正しいのはどれですか。
  1. 周囲の車の流れにのる
  2. 低速で運転するのは法律違反である
  3. 学校の近くでは15mph以上のスピードは出さない
問題8. アルコールの血中含有量検査を受けるのは
  1. 拒否することは法律違反である
  2. 弁護士の指示に従って受ける
  3. 自分が酔っていない時は拒否できる
さて、何問答えられたであろうか。これらを全て答えられた人はもう明日からでもCaliforniaを運転できる。しかし、それは容易ではないと思う。なぜなら、アメリカの車に関する法律で日本とは大きく異なると思われる物ばかりを集めたからである。
当然国がかわれば法律も変わる。 ちなみにアメリカでは州毎に免許証を発行しており、勿論法律も変わる。 カリフォルニアのような大都市を抱える州では法律は非常に厳しいものとなる。 見渡す限り畑が広がる、アイダホの田舎あたりとでは交通事情が違うのだ。 だから、アメリカの他の州で免許をとっていても、カリフォルニアで車を運転するにはカリフォルニアの 運転免許を取得しなければ法律違反になる。勿論国際免許証をもって渡米して来た 外国人も3ヵ月以上の滞在(つまり観光ビザでない人は)入国後すぐにカリフォルニアの 免許をとらなければ無免許運転として検挙される。そういうわけで、私も運転免許を とらねばならなくなった。といっても、国が変わっても安全に関する思想はかわる はずがない。基本的な運転法規は日本人でもほとんど理解できる。 試験も日本語で受験できる。しかし、安全を確保するための細則となるとずいぶん 異なるのである。
アメリカと言えばまず日本と違うのは車は右側通行ということである。 もちろん車は左ハンドルである。それから、日本で発売されている 観光ガイドブックなどを熟読すると、いくつかの違いが書かれてある。 「赤信号での右折は標識がそれを禁止していない限り可能である」とか 「信号のない交差点では先に交差点に入った車から通行できる。同時に入った場合は 自分の右側から」などということがわかる。 しかし、それだけを知っていたからといって筆記試験をパスするわけではない。 実際に私はほとんど勉強をせずに試験を受けにいったが、一回目は見事に不合格に なった。気合いを入れ直してガイドブックを熟読し、二回目は合格したのだが、 上に挙げた問題は、私が勉強をしていて気が着いた驚きの法律の数々なのである。
上の問題の解答と照らし合わせながら、法規などの違いを説明するのは最後にして、 まずは運転試験を受けるまでの経緯を書いておこうと思う。 運転免許の発行などの事務を取り仕切るのはDMV(Department of Motor Vehichles)である。 広いLAには20以上のオフィスがある。そこへ行って12ドルの申請料を払えば筆記・ 視力・実技の試験を受けられる。筆記は一回の申請につき3回までトライできる。 実技は2回まで。それを落ちれば再申請ということになる。 日本のようにドライビングスクールに通えば実技が免除されると言う制度はない。 (ドライビングスクールはある)全員同様の試験を受けなければならない。 また、日本のように組織だって免許を一日で発行させると思想はない。 最初に行ったSanta MonivaのDMVに入るとまずInformationで自分が何をするか を告げなければならないということなので、並ぶ。待つ事30分。免許の申請に 来たと行うと申請所を手渡し、そのスタッフがいうことには「この申請書を 書いて提出して下さい。でも、アポ無しで申請をしたら時間がかかるから ここに書いてある電話番号に電話してアポを取ってからの方がいいと思います。」との こと。しかし、そんな悠長なこともしてられないと思い、一時間ぐらい待つ つもりで、アポなしで申請しようとした。すると「C158」と書かれた整理券を 貰う事ができた。待ち合い室 で待っていると、前の電光掲示版に整理券番号が表示されて事務が進行することを 知った。待つ事30分。前の電光掲示板に表示されるのはアポをした人がもらう 整理券の番号である「A」のものばかりだ。Cはでない。どうもAを持つ 客のための窓口はたくさなるのに対してCの方は一つしかないようである。 ようやくCが出た。番号を見る「C57」。素直にアポを入れる事にして 家にこの日は帰る事にした。
電話を入れると、おなじみの自動応答である。自分のすんでいる エリアのエリアコードをいれると、「あなたの近くのDMVはHollywoodです」 「明日の10時に予約を入れました」ということであった。こんなに 簡単な事で良いのかといぶかしく思いながら次の日教えられたDMVへ 行った。Santa Monicaと違って、ここはなんだかすいている。とにか くアポがあるといって、申込をするとすんなり手続きが済み、すぐに 視力検査が始まった。それも簡単。申請窓口のとこから、数メータ 離れた所に貼っている紙に書かれたアルファベットを読むだけである。 それ以上はなにもしない。次に筆記試験を受けに行った。まず試験 を受ける前に写真を取る。それから指紋とサインの登録を行う。 それがすむと試験部屋へ適当にはいっていけばよい。すると 試験のスタッフが申請書を見て、日本語の試験を渡してくれる。 試験はなんと立って受ける。また制限時間もない。自分が納得する までやればよい。試験問題は36問の法規の試験と12問の標識の 試験である。前者は5問以上、後者は3問以上の間違いがあると不合格 である。試験が終わると、答案を持って、担当の人に手渡す。その場で 採点してくれて、合格すればその場で仮免許の紙を発行してくれる。 不合格になると、次の日以降にもう一度トライしなければならない。 私は前述したように一回不合格になり、二回目で合格した。仮免許を 貰うと、こんどは実技試験を1年以内にうけなければならない。 勿論予約が必要。車は自分で持ち込みである。今日の時点で私は まだ予約を入れていないが、後日入れる予定である。
さて、最初の問題の解答に移ろう。問題1は路面電車の問題。 大阪の阪堺電車などを見ていると、彼らは信号を守っている。だから たぶんCだということになる。路面電車が車と接触しても、普通は車 の方が責任を持つからだ。しかし、正解はA。これには驚かされる。 LAはまだいいがSFはケーブルカーの街である。青だと思って 交差点に調子良くつっこんだらケーブルカーと衝突などということ も起こりうる。もちろん路面電車にも守るべき交通法規はあるのだろう が、それをしらなければ運転は恐くてできないではないか。
問題2は勿論Aと言いたい所だが、答えはBである。横断歩道 でない限り歩行者は自分の優先権を主張できない。もちろん、だから といって歩行者をはねたりしたら違反である。が歩行者は自分が道を 横切っているからと言って常に自分の優先権を主張できないのだから 裁判になると弱い立場にたたされる。交通弱者も法律を守っている限り 守られる。実にアメリカらしい。同様の問題が問題4である。自転車は 自転車専用レーンがない限り車と同じ車道を走る権利を有する。だから 答えはCである。
問題3はアメリカでの「右側優先」というルールを知っているか ということを問う問題である。基本思想としては自分の右側の交通を 常に優先させるのである。
問題5は日本ではあまり見られないきまりである。答えはCである。
先程試験は日本語で受けられると書いたが、妙な日本語誤訳も受験者を 悩ませる。問題6はあまり意味がよくわからない。答えはBだが、要するに 如何なる状況でも路肩に飛び出して車を追い越してはいけないということを 知っているかと問うている問題である。がこのBの意味はわからない。 英語では[Under No circumstance]の日本語訳であることが、後で調べて わかった。正しい日本語訳は「いかなる状況でも」であろう。
赤信号での右折可など、Californiaではとにかく自動車の流れを よくするために様々な法律がある。この問題8もそうである。正解は Bである。制限速度以上の走行は勿論違法であるが、異常な低速運転 も違法なのである。よく日本の紀伊半島を一周する国道42号線には まったく現代の基準からはずれた低速運転をする軽トラや都市部を なにやら勇ましい音楽を流して低速で走る黒いミギーな車などをを目に するが、そのような輩はCaliforniaでは統べからく交通違反である。 罰金である。たいへんいい法律だと思う。
最後の飲酒運転に関する問題はAである。これは分かりやすかったと 思うが、たとえ自分が飲んでいなくても検査を要請されれば絶対に拒否 できないのである。運転免許を申請する時に申請書に「求めに応じて いつでも血液あるいは尿検査をうけることに同意する。それを拒否した り検査を故意にうまくいかないような行為をした場合は法律に定める 処分に従う」という文面があって、そこにサインをしているのだから、 それは仕方がない。良く日本ではごまかして息検査をごまかすが、そういう 姑息な手段が警官に知れた場合は罰金なのである。おまけにテストを受けて 飲酒運転でつかまるより、検査の拒否でつかまる方が処分が重いのだから もう、これは素直にテストを受けるしかない。他、飲酒に関してはもっと 厳しい法律があって、車の中に蓋の空いているいないにかかわらずアルコール 飲料を置く事は違法である(トランクの中に積む事だけが許されている)。 買物でビールをかって後部座席に積んでいるのを運悪くみつかれば罰金なので ある。知らないとえらいめにあるのである。
その他、運転免許の有効期間は4年から5年。更新は無違反のドライバー は郵便で更新が出来るが、そうでないばあいは、DMVで筆記試験を受けて 36問中3問以下の間違いで合格である。日本では講習をうけるだけだが 法規の試験をもう一度受けないといけないというのはかなりのプレッシャー である。
こんな具合であるが、意外とCaliforniaで免許を取るのは簡単ではない。 また仮免許が筆記だけでもらえるという当たりは運転の細かい技術がなくても 運転できるというアメリカ的な姿を反映しているておもしろい。私には後 実技試験が残っているが、これは後日報告する事になるだろう。
自炊生活 (11/5/2000)
今、アメリカで一人暮らしをしている。
実は、妻が一時帰国して二人の恋愛期間と新婚期間を過ごした西大寺 の家の退去手続きをするために帰ったのである。西大寺の家は 一時の仮住いではあったが、思い出深いところなので退去は少し寂しく もあった。が、そのような感傷に浸っておれるのは一瞬だけで、妻が いないということは次に帰って来るまで、食事は全て自分で作らなけ ればならないという事を意味する。 「名古屋に居る時も一人暮らしをしてたやないか。何を 今ごろそんなことで慌ててるねん」というつっこみが入りそうだ が、名古屋の時は学食にたいへんお世話になったので一切自炊などは していなかったのである。 (自慢にはならない!) それならアメリカでも 同様に学食で夕食をとればいいではないかとも言われそうだが、大学 近辺のレストランはひたすら、やや落ちる味の料理を量は多く、少し 高い値段で給仕するので経済的にも健康的にも精神的にもよろしくないし、大 学の生協は、確かに安いのであるが、メニューが貧弱で2週間以上の夕食を 賄うほどの能力がない。これはおそらく、 基本的にかなりの数の学生達を捌かねばならないという要請があるために、 ファーストフードのお店しか揃えられないことから来るのであろう。 アメリカ人は、そのような貧相な食生活を 続けても、日々のカロリーバランスや栄養バランスを保持していけるだけ の身体消化機能を維持しているようで、羨ましくもあり恐ろしくもあるのだが、 ぽっと出の日本人が、これらの食事を毎日続けていたら、きっと高カロリー食 を続ける結果となり、帰国時に、あまりの変わり果てた姿に「おまえ、誰や?」と 親族・友人らに疑われ、パスポートを見せてやっと本人と認めてもらえる などと言った事態にもなりかねない。(実際、そのような人があったのを 私は知っている) とにかく適切な食事量を確保するならのは自分の手ですべて やらないといけない状況になったのである。
ブライダル演芸会の参加者はご存知かと思うが、私は結婚してから 料理の手習いを始めた。義理の父が元料理人で、私が遊びに行くといつも 腕によりをかけて、たいへんおいしい料理を作ってくれるのを見て、 自分も料理をしてみたいと思ったのがきっかけである。それが去年の話。 機会があったら、弟子入りして魚のさばき方ぐらいは学びたいと思っている のだが、といっても生まれてから28年間料理など全くしたこともなく、 もともと全般的に不器用な人間なので、いきなりそういうことをするのも 無理である。そこで、まずは料理の本を買って来て、いろいろと練習がてら作って みることにした。勿論味見の犠牲者は妻である。最初は豚の角煮から始まり 筑前煮、リゾットにパスタ、酢豚などなど、渡米前にはとにかく品数だけはこ なすことができ、少し自信をつけた次第である。
余談だが料理というのは、食材や調味料などの多くの選択肢の中から、 美味しいものを作り出すという作業であり、食材の性質や調味料の性格 をよく知った上で、それに豊富な創造力を加えて一品を作り出すことである。 この選択肢の多いことといったら、この上ない。実はこれが楽しい。 数学の研究などを生業にしていると、こういう創造の妙を楽しむような作業 にははまりやすくできているのかもしれない。おまけに最初は本を見て 見よう見まねで成果を出していく段階が必要という点でも数学の研究に 似ている。もちろん、私はまだ創造力を発揮して、などという偉そうな 段階に至っているはずはなく、まだ手習い段階だが、なんとなくその先の 楽しみが見えているあたりが、いままで料理なんてしたこともなかったのに 俄にはまり出した一因かと思っている。
これがアメリカ渡米前の状況である。 素人というのは恐いものなしで、 この吹けば飛ぶような自信を基にアメリカでその成果を発揮することにした。 それから2週間。もう3日もすれば妻が帰って来るので、自炊の日々も終わり を告げるのだが、14回の夕食のうち、人に出してもはずかしくなかったメニ ューは ペンネアラビアータ(ゆでて和えるだけという噂もある)とチキンの トマト煮(これは力作だった)そして私の定番ベーコンリゾットぐらいであった (すべてイタリアンである理由はすぐ下でのべられるだろう)。これが結果である。 自分の自信とは関係なく、自分の能力に相応した当然の結果しか出て来ない というあたりまで数学に似ている。ともかくも、いろいろな経験ができて実に 有意義な二週間であったとは思う。今後も週末ぐらいは台所にたって、料理 をしたいと思う。
さて、今この2週間のメニューを見ている。やたらにイタリアンが多い。 なぜだろうか。その理由は以下のような思わぬ緒とし穴があったことによる。 つまり、日本から持って来た和食や中華の料理本にある食材が揃わず、結局選択肢が 狭められたのだ。手元にある食材を利用して和食は中華をアレンジするという 芸当など勿論持っていないし、よしんばチャレンジしたとしても怪しい アジア料理となって、これなら、外へ食べにでた方がよいという結果にも なりかねない。ことわっておくが、食材が揃わないといっても、味噌や醤油など ではない、そういうものなら あじしおや本だし、お好み焼きの粉にいたるまで LAでは簡単に手にはいる。 まず、野菜の種類が違うのである。胡瓜やナスはやたらでかい、しかも大味 である、これでは漬物にも向かない。長葱もあるが、どことなく味が食べる ものではなく匂消しの色合いが強くて、食用にはちょっときつい。とても 生で食べられるものではない。白菜やれんこんなどは日系のお店にあるが、 どれも日本の野菜をアメリカでつくっているため、土壌があわないのか妙に 小さい。あと、中華や和食でよく使われるたけのこやサトイモなどの根菜類も みかけない。 次に魚の種類がない。日系食材専門店は除いて、普段目にする海鮮物とい えば鮭とか蝦などで、あじやさばなどはこの世界に存在しないかのようだ。 この時点で本を見て日本料理の煮物をつくるのはあきらめた。今、食べたいものは と言われたら、迷わず鯖といいたい。最後に肉類はある。もちろんアメリカ産なので 油は少ない赤身のそれである。牛やチキン、ラムなどが売られているのだが、ミンチ (lean)を除いて、だいたい塊で売られているので、購入後自分で肉をさばかねば ならない。日本のように様々な形で切られて売られているということはない。 (日系の店では売られているが。) この状況の中で私の腕で作れるものといえば、 結局イタリアンということになったかと思われる。
このようにアメリカで自炊するというのは、物を買うと言う段階でも 結構最初は刺激的で面白いものだ。アメリカと言うと何かただまずいという 印象を持ちがちだが(おおよそ当たっているが) カリフォルニアワインは 安いがうまいし、カリフォルニア米も日本の3分の1という値段でそこそこ おいしい。(中級程度) マヨネーズも(私は)美味しいと思っている。 また、日本では見掛けない野菜や食材もたくさんある。だから、日本と同 じような食事ができないと嘆くよりも、これらの新しい食材で何か美味しい ものを作る工夫をしたほうが、生活がより華やぐかもしれない。しかし、 それらをまともな料理として仕上げるためには、怪しい料理発明家の私 ではまだ荷が重すぎる。が挑戦はしてみたいと思う。と、いいつつ早く 妻が買えって来て、早く「人間の食生活」に戻れることを心待ちにして いる今日このごろである。
実況 大統領選挙 (11/7,8/2000)
今年は4年に一度の大統領選挙が行われる年である。 一年にも及ぶ選挙戦の末に国の最高責任者が選ばれるこの 選挙はまさにアメリカのビッグイベントである。候補者は 現テキサス州知事ブッシュ氏と現副大統領ゴア氏の事実上 一騎打ちで、メディアも直前までその雌雄を決することが できないという状況で接戦になっている。結果はこの文章を 書いている内に決まることかと思う。現在は19時。ABCに よると現在の得票数は(ゴア173,ブッシュ212)となって いる。ややブッシュさんがリードしている。しかし、まだ大票田の カリフォルニアやフロリダの状況がわからないので、結果は なんとも言えない。270の得票で当選が決まる。
さて、次の開票速報がでるまでに、大統領選に関連して いくつか面白かったことを書きたいと思う。まず、大統領 選挙というと、大統領の選挙だけをしているように思えるが 実はそうではない。もちろん最大の関心事は大統領の選挙であ るが、その他にも様々な選挙が同時に行われている。国政レベル では上院議員の選挙を実施している。現大統領クリントンさんの 奥さんであるヒラリーさんのNYの上院選挙も今日である。またDistrict Attoneyという法廷弁護人を選ぶのも今日。それから、前に書いた 州ごとの各種Propositionの賛成反対票を投じるのも今日である。 「決めることは今日一回の投票で全部決めたらええやんけ!」という 思想である。それにしても、一日でこれだけのことに対して投票をしなければならないという のは実に骨の折れる作業だと思う。Caflisch先生に今日のことを 聞いてみたが、やはり投票には時間がかかるらしく、長い列が 出来ていたと嘆いおられた。投票用紙もマークシートのようなものが 配られ、それに穴を開けてチェックするという方式である。一枚で すべての投票が済むようになっているが、慣れていない人からみれば たいへん煩雑なような気がする。機械で集計するのか日本のように 人手で開票するのかそれはわからない。州によるのだろうか。
選挙の日は11月7日と決まっている。これは歴史的な理由があって 昔はこの時期にだいたい農作業が終わって一段落して選挙を する時間がとれるようになっているかららしい。今はもちろん形骸化 しているが、大切にこの日を選挙の日と決めている。ところで、 今日は火曜日である。日曜日ではない。日曜日でないからと言って 棄権する人もないということだろう。そもそもニュースで投票率など という言葉すら耳にはしない。選挙に行くのは当然であって、何人が 投票に行ったかなどということには関心がないものと思える。 日曜でも行楽を優先させる日本とは違う。国全体が選挙 の日という事で、別に会社に気を使って仕事優先で選挙に行けないという こともない。(不在者投票制度はもちろん存在する。正確な数字は忘れたが、 かなりの人が不在者投票をしていたようである。)我々のUCLAはもちろん 開店していた。講義が行われていたのかどうかは不明である。なんとなく学生が 少なかったような気がするのは、気のせいか。いずれにせよ選挙だからといって、 休みになるということはないらしい。
共和党は今回こそ政権奪回を狙っているようで、本来保守的な基盤の強い この政党にあって、今回は「思いやりのある保守」という政策スローガンを 掲げ主要政策には中道路線を標榜している。これは民主党が本来の改革的な 思想を保守中道よりに転換したことで勝利した4年前のクリントンさんの時を 思い起こさせる。また、以前ブッシュさんは外交に関するインタビューで確か イランかどこかの元首は誰かと言われて「知らん」と答えたことのある人で その外交手段に疑問が投げかけられていたが、それに対しては外交政策と防衛 政策に長けたチェイニーさんを副大統領に指名して弱みを補完した。 その結果、歴史的にみてもたいへん珍しい大接戦となっているのである。 今のアメリカの繁栄を作ったのは紛れもないクリントン政権であり、その副 大統領のゴアさんが断然有利かとおもったがそうではないらしい。ゴアさんは ゴアさんでブッシュさんが中道を打ち出した一方で今回はやや左よりの政策 を打ち出した事も影響していると思われる。同じ中道を標榜しては ブッシュさんとの争点が見えないということだろう。また前政権のクリントン政権は 万全の政権であったかというと、そうではなくて、例の不倫問題などもあって、 経済繁栄という結果が出ているから「認めてやってもいいが、完全に是認はしない」 というのが本当の所だろう。これでは副大統領という肩書きもあまり意味がない。 クリントンさんもゴアさんと現政権の関係がないということをしきりに演説で訴えて いた。
19時30分。現在ブッシュ217、ゴア173。
日本でも最近では2大政党による政権交代を目指す向きもあるが、だいたい選挙をすると あまり代わり映えのない政策がずらりと並ぶだけだし、違いと言っても非常に テクニカルな所に終始しがちで、選挙民にはなかなか見えにくい。しかし、それは 別に日本の政党が意見がないのではなくて、「国民の要望にきちんと答えたらだいたい 同じような政策になりました。」ということなので、それはむしろ政策実現の方法論 にもっと特色を出していくしかなさそうである。もともとオール自民党の人が 別政党を作っているだけだから、基本思想は、あまり変わらないと思える。どちらかと いうと日本の現状では共産vs非共産の方が2大政党性といった構図がはっきりして くるように思えるが、それはまた非現実的な選択でもある。あえて日本にアメリカの ような構図を持ち込むなら、江戸・明治時代の日本の伝統回帰を訴える「大江戸党」 と新しい感性で次々と伝統を打ち破る「Neo Japan党」が、出来て、その基本思想に 基づいて現実の政策を議論すると、同じ問題でも異なる政策が出て来て面白いかも しれない。それは、さておいて、とは言ってもアメリカでもそれほど過激な意見が 出ているわけでもないのに、ちゃんと2大政党制となっている。にもかかわらず、 いつも選挙の度に政策が議論される。それは結構不思議な気がしたので、調べてみた。
まず政策の争点であるが、「外交」「防衛」「教育」「福祉」「貿易」「税金」という 点は日本と同じ。日本ではほとんど問題にならない争点として「人工中絶」「人種優遇 政策」「同性愛者の権利」「銃規制」などがある。この内いくつかについて取り上げて みようと思う。まず争点がはっきりしそうな問題としては、人工中絶がある。共和党は 基本的に反対だが母胎に危険がある場合、近親相姦での妊娠に限り中絶を認める (この辺りが中道政策というのだろう)とある。民主党は中絶は基本的な女性の権利として 認める方針である。あと、アメリカと言えば銃の問題がある。これに対しては、共和党は 現行の法律による取り締まりを支持し、銃の登録制には反対している。一方民主党は、 ピストルの購入者には写真付きのIDを義務化して、銃の規制を厳しくすると主張している。
今回の政策の中での一番の争点はなんといっても、このクリントン政権のもとで黒字に 転換した財政をどのように使うかという点にある。まず税制は共和党は一律所得税の減税 を打ち出し、民主党は中流層のための教育や引退資金などに対する減税だけを訴えている。 黒字財政を安易に減税という形で国民に還元するのを嫌っているようである。では民主党は どこにお金をつぎ込もうとしているかというと、教育や福祉政策につぎ込むとしている。教育に 関しては私立学校への助成金(これは以前述べたクーポンだが)に賛成しているのが共和党 反対しているのは民主党である。民主党はお金を公立学校の教師の数を確保しその質を 向上させるために使おうとしている。財源の問題については、ブッシュさんは非常にわかりやすいキャッシュ政策をとっているようである。アメリカ人にとっては、もちろんキャッシュ政策の方が支持されやすいだろう。財政面ではブッシュさんが支持され、銃、中絶など倫理や宗教の絡む問題 ではゴアさんが支持されているようである。
20時現在 ブッシュ217 ゴア231 カリフォルニアの票が開きゴアさんに流れる。
後、日本に関係のありそうな外交政策に対しては、共和党は孤立主義と保護貿易は国内の混乱 を招き同盟国との関係を損ねるので反対。民主党は正義と公正な世界を作るために米国の 立場を大きくするとやや抽象的な表現になっている。クリントン政権の元で様々な保護貿易法案 が通っており、事実多くの左派の多数はWTOやNAFTAには反対しており、今の経済繁栄の 元でますますアメリカの立場を強くするために対日そして、これからは対中国に対してますます 経済的圧力がかけられるものと予測されている。ゴアさんはそういう行き過ぎを押さえるために 平等貿易を訴えているが、中道路線を標榜するブッシュさんとの対抗軸を発揮するために、これら 左派の主張を無視するわけにもいかず、難しい所である。
20時18分 ブッシュ225 ゴア231。接戦である。今ヒラリーさんの勝利講演が放映されている。クリントン大統領は今度は嫁さんに食わしてもらうようだ。
今、面白いニュースを目にした。LAの北にあるバーバンク市での住民投票の様子である。 それによるとバーバンクの空港の建設に賛成か反対かという投票が行われているようだ。 現在開票中でその行方はわからないが、日本の神戸空港や琵琶湖空港は住民の大きな反対があるの に実行され、吉野川可動堰は住民投票で否決されても未だ中止されていない。 やはり地域の事は地域が決めたい。自治省もそこへ踏み込まねば、いつまでも弱小省庁であろう。 (今年の省庁再編ではどうなるんだっけ?)
20時39分 ブッシュ233 ゴア231。大票田を抱える都市部で強いゴアさんは、勝利した州 の数は少ない。一方で勝利した州の多いのがブッシュさん。しかし、田舎が多いのでこつこつと票を 稼いでいるという状況である。後、開いていないところで、大票田はフロリダの25,ワシントンの11である。残りの票は76。いろいろなアナリシスがテレビでなされているが、まだまだ勝利が どちらに行くのかわからない状況である。フロリダを取ると、大きな前進であるが、他の票の行方も 誤差とは言えない。
20時53分。 カリフォルニア州の住民投票、Prop 38の結果が出た。「反対」である。内容は私立学校への 4000ドルの助成金クーポンの支給の是非を問うものである。少数者の受益のために 大多数の財源削減になりかねないような政策には賛成できないということだろう。そもそもこの Propositionは誰が提出するのだろうか。Caflisch先生に聞いてみると、基本的にはある程度の 署名を集めて提出すればいいらしい。もちろん草の根的に署名が集まることもあるが、だいたいは ある種の団体が署名を集めて提案するらしい。この38もおそらくは私立学校が組織して作る団体 が提出した物だろうということ。Caflisch先生は反対したそうだ。
21時。アラスカの票が開いた。ブッシュさんである。これでブッシュ236,ゴア231。 アラスカは広いので開票が遅れるかと予測していたが、それ以上に人口が少なかったらしい。 日本と同じように各テレビ局は総力取材(Team Coverage)でこの選挙のことを報じている。 これまた日本と同じように、出口調査の取材や、政治アナリストが登場し、画面の下にはブッシュ 何票、ゴア何票というキャプションが入っている。時折、ネタが切れるとブッシュさんやゴアさんの 選挙本部のようなところ(テキサスとテネシー)が映し出されて、そこに集まった支持者の興奮が 伝えられる。何もかもが日本とよく似ている。どっちがオリジナルかはわからないけが。 いや、読売の「選挙&ナイター」のような番組ないことを思うと日本の方が進んでいるのかも しれない。逆に選挙の結果とナイターの結果を同列に扱うという日本の特徴なのかもしれない。 今の時点ではやはりフロリダの票がどちらへ流れるかが大きな問題で、それが頻繁に論じられている。現段階ではブッシュさんが一歩リードであるが、まだ都市部の票が空ききっていないのが予測を 難しくしているようである。おっと、アーカンソーが開いた。ブッシュさんである。これで242と 231。おお、ワシントンが開いたこっちはゴアさんだ。これで242と242タイである。 こつこつ票を稼いでいるブッシュさんだが大きな票を持つ州でゴアさんが獲得して、追いつくと言う 構図。票を獲得した州を色分けしてみると圧倒的にブッシュさんだが、票は同じである。残る州は あと5つ。
21時23分。しばらく票が開きそうにないので、選挙戦のことを少し。まず大統領選はいわゆる 大選挙区選挙である。であるからして、候補者はアメリカ国内をくまなく遊説しなければならない。 私の住むWestwoodにもゴアさんが来た。その次の日の朝はフロリダにゴアさんはいた。ゴアさんも ブッシュさんも一日で全米の各州の各都市を時間刻みで回っている。実にタフな人々である。タフな上 にお金もかかっていることだろう。こんなことは2大政党にしかできない。他の候補者(もちろん他の 候補者もいる)は2人いるが、緑の党のネーダーさんやブキャナンさんはテレビCMだけ での選挙戦という印象だった。もちろんゴア・ブッシュともにテレビCMをばんばん流しているし その量に至っては、他の二人の追随を許さない。最近の選挙ではいわゆる「Negative Action」つまり 相手の欠点をがんがん宣伝するということが問題になっているが、今回もそういう宣伝はたくさん 見た。それどころか上院議員やDistrict Attoneyに至るまで相手の在期中の仕事がいかに悪いかと いうことを必死に訴えていた。コマーシャルも相手の欠点だけを大々的に広告するものから、少し 相手のことを落としておいて、自分がテレビに登場して自分の主張をする広告まで様々である。 一人で何種類かの広告を持つのが普通である。数に規制があるのかどうかは知らない。とにかくなんでもなりふり構わないというところがある。ただ、それでも相手の仕事に対する非難はしても、相手の プライベートには突っ込まないようで、選挙の数日前にブッシュさんの24年前の飲酒運転での 逮捕が明るみにでたが、ゴアさんはあまりそれを言及しなかった。ひねくれて見れば、ゴア陣営が そのネタをリークしておいて、あえて寛容な態度を見せて有権者への印象をあげようという戦略かも しれない。有権者もあまりそのことは気にしていないようだった。日本の某M総理大臣の買春疑惑が 問題になっているが、それが事実だとしたらどのような反応がでるのだろうか。そもそもMさんはその 自叙伝めいたものでも明らかにしているように、実にやくざな人生を送ってきた人なので、 それぐらいの犯罪歴はあっても当然であって、むしろそういう人を党首にしている自民党の方に 問題があると思うが、どうだろうか。
22時。なにも起こらない。暇である。お茶でも飲もう。
22時32分。ようやく票が動いた。ブッシュさんが4票を確保246。ゴア242。もしフロリダ がブッシュさんなら勝利確定だが、まだしばらくは結果は出ないだろう。大統領選の票が開いた州 では今度は上院議員の票が開き始めている。
23時22分。ブッシュ大統領の誕生である。どうやらフロリダの票を獲得したようである。271と242。長い長い選挙戦はこれで終了した。現在オースティンは大騒ぎである。共和党政権の久しぶり の誕生だ。しかし、これほどまでの接戦も歴史的だと言えるだろう。私もようやく眠れる。おやすみ なさい。みなさん。
ZZZZZ........
次の日朝7時。起きてテレビを見ると、ブッシュさんの勝利宣言はまだ行われていない ことがわかる。フロリダ州の得票があまりに僅差であるためにゴア陣営が不在者 投票の得票も含めて数え直しを要求したらしい。日本でも誤報されたと思うが 当初フロリダは3台ネットワークそろって、開票一時間後にゴアさんの獲得を 予測していたが、その後、取り消されたという経緯がある。それほどフロリダ が大接線だったということである。テレビでは現在、ゴア260、ブッシュ 246と出ている。ん?数が足らんな。フロリダだけではないようだ。 オレゴンもまだ確定していない。ここまで、接戦だとメディアの統計を駆使した 票予測も全く意味がなくなるのだろう。数え直す前に報告されているフロリダでの得票 数の差が、なんとたったの1785票である。また、全得票数ではゴアさんがブッシュ さんを上回っている。フロリダの数え直しが終わらない限り結果は確定しないだろう から、もうテレビもただその結果を待っているだけである。
朝8時。これから準備をして妻を空港まで迎えに行かなければならない。 帰って来るまでには結果が出ていると思うが。実況HPはまだ続く。
大統領選挙の行方 (11/9/2000)
大統領選挙は前代未聞の接戦である。フロリダの数え直しが行われて いるが、一度けちがついた開票なので、何を持って「正しい開票結果」 とするのか。もはや、そこが問題になっている。ゴアさんが敗北を認め なければ、この選挙戦は終わらないといえよう。 しかし、ゴアさんにしてもこれまでの支持者のことを考えれば 、簡単に敗北は認められないだろうし、実際に総得票数は自分の方が (たとえフロリダで落したとしても)多いのだから、簡単に諦めるわけ にはいかないであろう。 ブッシュさんにすれば、敵が自ら負けを認めなければ、いくら勝っても 今後の大統領としての政治にけちがついてしまう。 このような政治的混乱がいつまでも続くことがアメリカに とって決してよい影響を与えないであろうから、どこかで何らかの決断 が行われるものと思われる。
しかし、世の中はまだ混戦ムードである。支持者の熱気は高まる ばかり。テレビは2度も票の読み違いをしてしまったこともあって 余計な予測はまったくせず、黙々と伝わる開票結果を伝えるばかり。 今の情報では二人の得票差はたったの225しかないとなっている。 おまけに、フロリダのある街では投票用紙が紛らわしかったので、 誤って投票してしまった!、やり直し要求をする!などと叫びだして いる。みんな同じシステムで投票したのだから、間違えたなら、それは 間違えた方が悪いと思うが、もはや火の付いた導火線を止められる 人はいない。
こういう接戦の時に、どのような決着をつけるかなどということは 合衆国憲法にも記述がないらしく、あるニュースでは憲法の見直しも 行われるかもしれないという報道もされていた。混乱がどこまでつづくのか 全く先が見えない。
大統領選挙の行方 その2(11/12/2000)
大統領戦は泥沼化している。日本では内閣不信任が決議されるとか、 されないとか。両国とも政治が不安定になっている。もちろん株価も 下落。経済も混乱気味である。
アメリカ人にとって大統領戦はたいへん 重要なものであって、その興奮ぶりは私が見ていても凄まじいものである。 自分の支持する候補者が当選しないと本当に悲しむ。当選すると喜ぶ。 だからこそ、今回のようなことになると両方の支持者が両方とも自分達 の支持する候補者が勝つことを望む。そういう支持者を目の前にして 両候補ともに後にはひけない状況である。
しかし、フロリダでの「数え直し(Recont)」は票の数がその都度 変化しているらしく(それでもブッシュの優位に変わりはないが)、 また先日書いたように投票用紙が紛らわしいために誤った投票をした フロリダのある街では、その投票用紙の不備のために1万もの票が 無効になったなどとも伝えられ、今や政治的な混乱 は一般市民の混乱も産みだし、事態の収拾をどのようにつけるかが 非常な問題になっている。このような事態を招いたのはもちろん 今回の選挙がまれに見る大接戦であったことによるのだが、もう一つ 私が思うにアメリカの「いい加減さ」が露骨に出たことも 問題を大きくしているようだ。誤解を招くといけないので、もう少し 書いておくと、アメリカ的いい加減さというのは、物事を精度高く 実施すると言う点において、やや信頼度が足りないことを指す。 アメリカに来てから様々なシステム、郵便、公共交通、それに いろいろな手続きに至るまで、様々な所でその実行精度に信頼性がない。郵便が ちゃんと届くか、それさえも信用できない。私が11月2日に 送った国際郵便EMSはいまだにLA本局に入ったと言うトラッキング 情報を残したまま行方知れずである。もう10日もたつのに。 またバスも時間通りには来ない。DMVでの申請手続きの悠長な ことといったらこの上無い。日本での官僚主義のことを悪く言う前に この点を何とかした方がよいだろう。競争主義が世の中を変えるなら 選挙のカウントも一般企業がやったらいいと思う。我が社は投票を1% の誤差で数えるなどという企業に委託したら良いだろう。日本の会社の 参入する機会が増えるに違いない。話がそれてしまった。 そんな状況だから、きっと票の数え方なども結構いい加減に違いないと 容易に想像がつく。数え直す 度に票が違うのも別に不思議ではない。
もう選挙管理の委員会などの 結果などは信頼性ゼロである。だれが、保証しだれが事態を 収めるのだろうか。具体的にわかっているのは、来週に海外 にいるアメリカ人からの投票用紙がフロリダに届くらしく、 その票を最終的に加えた数を投票結果にすると上院あたり では考えているようである。しかし、もしこのような状況が 起こらなければ、これらの海外の投票用紙なども全く票として カウントされないことになるのだからこの点でもいい加減としか いいようながない。
このような状況を前に、いわゆる識者という人が訴える。 「全米市民よ落ち着くのだ、すべては憲法によって解決される。 憲法の定めるところに従って事態の進展を静かに見守り なさい。そして、両候補者は、今回の選挙の結果について、 いかなる法的闘争をしてはいけない。これは憲法に対する 挑戦にもなりかねないからだ」つまり、現在の憲法の定める ところの上院での判断に身を委ねよということを言っている ようである。こういう時に憲法の名のもとに事態の鎮静化を 図ろうとするあたりがアメリカらしくてよろしいが、一方で 今回の混乱を懸念してか、あるいは利用してか、ある人々は 大統領選挙の憲法を変えようと奔走しているという情報も 一部メディアでは流れている。
いつまでも混乱を長引かせることは、かえって国益を損ねる。 アメリカのためを考えて、ブッシュさんはフロリダの再集計の停止を 訴えるようなこざかしい法定闘争はやめるべきだし、ゴアさんも いつまでも「俺は負けていない」を繰り返さず、静かに結果を待つ ことだろう。この混乱を見事におさめた人物こそ本当の大統領の 資格を持つ人だと私は考えている。
世界征服はまず日本語から (11/14/2000)
Daily Bruinという大学の新聞局(学生が運営)が発行している 日刊紙がある。平たく言うと学生新聞なのだが、内容は学生新聞などと いうものから想像される物からほど遠く、政治、文化、経済、スポーツ など、他の一般新聞と比べても全く遜色のないものとなっている。京大新聞と は違う。値段は無料。誰がお金をサポートしているのかはわからないが、 大学やOB、あるいは授業料の一部から負担されているのかもしれない。
内容が他の新聞にひけをとらないだけではない。大学の新聞という 特性を活かして、最近の様々な研究の最新結果や解説記事などが掲載されて いて、他新聞との差別化も十分されている。また、学生のOpinion記事なども なかなか面白くて、読むとアメリカ人のものの考え方などが鮮明に浮き上がって きたりするのだが、今日はその中にあった、最近の脳科学の研究の解説記事に 興味深い記事があったので、それを紹介する。
アメリカは言うまでもなく他民族の国家である。公用語は英語である。 しかし、例えばLAに限るとスペイン語を話す人が40%にものぼり、公共の 様々な文書は英語とスペイン語の両方で書かれている。もちろん、他の言語を話す人も 多い。日本語、中国語、韓国語、言語の博覧会である。また、移民者の東の玄関 がNYなら西の玄関はLAであり、ビジネスでもマルチリンガルな才能が随所に 求められる。そういう土地柄もあって、UCLAではバイリンガルまたはマルチ リンガルの研究・教育にたいへん力を入れているらしい。Daily Bruin の解説記事 によると、ある脳科学の分野ではBilingualを作るためには第一言語の十分な習得 が必要条件でであるというのが、最近の一致した認識であるというのだ。
脳科学の研究では言語によって、使われる脳の部位は少しずつ異なる ことがわかっている。日本語には日本語、英語には英語を、理解し話すことを 司る場所がある。通常言語を司る脳の形成は一言語の修得を通じて幼年期に行われる。 しかし、この最近の結果によると幼年期に二言語の修得を同時に行った場合は少し厄介な ことが起こるというのだ。具体的に書くと、日本語と英語を幼年期に修得した場合、 脳には異なる2カ所の部分で発達をする。このことは簡単にわかる。一方で、同時に 2カ国語をやると、それらの異なる部位が同時に発達するが独立に発達するのではなくて、 互いに影響を及ぼし合うのだそうだ。そして影響を及ぼし合った結果、2カ国語の 言語の厳密な区別ができないという弊害が発生する。要するに日本語の中に英語が 混じり、英語の中に日本語が混じったり、両言語間の行き来を能動的に行うことが できなくなる。なるだけでなく、どちらの言語の修得が中途半端な状態になり、 結局あまり望ましくない状況になるというらしい。
 3歳ぐらいの時の言語習得の速さをみて、このときに第二言語も習得させれば よいと考えるのは素人が陥りやすい考えで、むしろこの時期は第一言語をきっちり仕込む方が、 後々になって第二言語を習得するときに役立つというのだ。日本では最近は幼児教育 の中に英語を取り入れることが、一つのトレンドとなっているが英語習得年齢が低く なっていく傾向に、一石を投じる結果だと思う。といっても、日本の公的英語教育は ありがたいことに、あまり機能しにくいようになっているので現実には心配することは ないと思うが。
世界征服の基本はまず練馬から。日本語をちゃんと話せないのに、英語を 話せるようになるなどという美味しい話はないということだ。といっても、 私のように加齢に伴って脳のボリューム的な発達によって学習していくよりも 脳のネットワークを複雑化させる方向で学習を進めるようになってしまって からでは、たとえ英語が話せたり聞き取れたりしても、ただしい発音やリズムを 体で覚えるには相当な年数を要する。あるいは、無理かもしれない。 だから、英語を習得するのに一番望ましい時期は中学生や高校生の時であると いう結論になり、これまでの言語教育がこの時期に行われているという 経験則を裏付けている。日本でこれがうまく機能していないのは、やはり「英会話」 に重点が置かれていない教育方法に問題があるのだろうが、別にそれが悪いことでも ない。バイリンガルは別に必要条件ではないのだから。
個人的な経験でも、毎晩アメリカでテレビを見ていると、ある日突然として その内容がわかることがあったりして、「おおっ脳の回路が完成か」と実感として わかったりする。言語の理解というのは脳のレベルでは漸進していても、それが 意味ある音の連続として理解できるようになるのは突然だということだろう。 これも脳の回路の生成=言語の理解という図式を裏付けているように思う。いずれに しても言語の習得というのは一朝一夕には進まないということであろう。
雑技団UCLAに来る (11/17/2000)
今日、雑技団がUCLAに来た。
UCLAではキャンパスイベントがほぼ毎日のように開かれている。 そのほとんどは映画の上映会のようだが、今日は中国から雑技団が招かれて、 その公演があった。入場料は大学の関係者は無料。(なんと素晴らしい!) 一般の人もたった10ドル。この情報をDairy Bruinでゲットし、二人は 迷うことなく参加を決めた。
開演時間は夜の7時から。私は研究をして家に帰ったが、準備をして出かけ るだけの十分な時間があった。大学から歩いて10分の喜びを噛みしめる。 開演30分前にいくと、客がずらりと行列を作っていた。指定席と言う訳でも ないし、あとで会場に入ってわかったが、たいへん大きな会場で別に何が こまるというわけでもなかった。
開演。一回45分Half Time 15分の2部公演である。 公演の内容は軽いジャグリングから始まり、細い筒の中を体に体を よじらせて入ったりでたり、アクロバットありの、テレビでおなじみの 雑技が目の前で展開される。しかし、全くの飽きを感じさせないショー構成 であった。観客はみんなノリがよいので、なんというかライブの 一体感も倍増だったように思う。二人はたいへん満足した。 UCLAの学生は昼間はたいへんよく勉強している(ように私には映っている) のだが、夜となるとまた思いっきり遊ぶ。今日のように金曜日だと Westwoodの夜は活気に満ちている。実に良い街だ。
近頃は生活も落ち着いて、大学近辺での様々なイベントにそろそろ 顔をだす余裕も出て来たのだが、そういうレクリエーションの類を 調べていると、この大学には実に多彩なイベントレパートリー があることに気づいた。そして大学の関係者には本当に様々な サービスが提供されている。今日のこの公演もそうだが、街の いたるところで、サービスが受けられる。Santa Monicaバスに 至っては無料。京大の学生証を持っていたからといって京都の 市バスが無料にはならない。むしろ、そういう学生の利用を あてにしている現状を考えると天と地ほどの差がある。(と いっても、バスがただなのは、学生の車の利用を制限しようと いう狙いもあるのだが、公共機関がそういうサービスに踏み切る というあたりが凄い。) ここでは学生が大切にされている。 もちろんそれは社会が負担しているからであって、大学と言う組織 がそれだけ社会の中で十分にコミュニティに近いということを表している。 日本で例えば京都市がそういうことを始めたら、京都市民は税金を 負担するだろうか? たぶんしないだろう。大学の数も多いことも あるが、大学がコミュニティから遠いことも一因であると思う。 それでも京都はまだ学生には優しい街であると自分は思っていたので 他の街では何をかはいわんやである。コミュニティと大学の関わり というものを日本の大学ももっと考えなければならないだろう。ゆる ぎない信頼と一体感を感じなければ、そのようなことは出来ないのだから。
アメリカを見る視点 (11/22/2000)
大統領の選挙はフロリダでの人手による再集計の結果を最高裁判所が 認めることとなり、ようやく収束へ向かいそうな気配だ。加熱気味の報道も 最近は落ち着いている。アメリカ人も、もういい加減飽きてきたのだろう。 今回の事件を機会に日本では、アメリカのいい加減さなどがおそらく話題に なっているに違いない。私もそう思う。テレビで一枚一枚の票を穴の空いて いる位置を確かめながら数える風景がながれる度に、なんとバカバカしい ことをやっているのかと思う。
我々がアメリカを日本から見る時、必ず一つのジレンマのようなもの を感じずにはいられない。それは、世界の第一等国としてのアメリカと いうイメージと、いい加減で粗雑なアメリカの社会というイメージである。 今回の選挙に関しても、あまりのいい加減さに呆れてしまい、 何が世界の民主主義だ、自分の国の選挙すら、まともに実行できない ではないかという突っ込みが入っていても、それは仕方のない事である。 しかし、聞こえの良い批判は痛快だが、物事の本質を見誤る結果にも なりかねない。今日はその点について最近感じている事を書こうと思う
まずは、アメリカにおける事実はその多様性である。これはこちらに 来てみないと分からない。以前、ハロウィーンでの不幸な事件の話の時に 触れたと思うが、あまりに多様すぎて何が常識で常識でないかわからない 国になっている。それがいい面に出ると、やたらフレンドリーなアメリカの 姿が現れる、彼らは個人のつき合いによってしかお互いの「常識」を確立 できないからだ。逆に悪い面に出ると、いつでも銃を携帯するという相手へ の攻撃性をむき出しにする。そして、健気な事に多くの矛盾を抱えながらも、その 多様性を容認し、それを国力の源としているのがアメリカという見方も出来る。
次に、アメリカの全ての拠り所は憲法である。これもこっちに来て見ないと 実感できない。人間の間に起こった真実というものは、人によって感じる事が 違う。長い歴史と文化に支えられた国では、いわゆる「常識=共有感覚」の ような共通の社会的刺激反応系が定まっているので、わざわざ法律に依って それを解決するようなことはしない。が、アメリカの場合はその歴史のスタートから 憲法があったわけで、聖書風に言うならば「始めに憲法ありき」なのである。 だから、真実は憲法の定める所によって決定されるべきである、つまりは 法廷闘争によって決定するのが正しいと考える。殺人犯が無罪になったり、 自分の不注意でコーヒーをこぼしたおばあさんが、賠償金を勝ち取ったり 裁判での狂態ぶりは時々日本でも時々話題になるが、アメリカ人は、その ジャッジメントに批判は加えても、そのプロセス自体には異義を唱えない。
そして、アメリカは徹底した個人主義の国である。多様性を容認すると いうことは、結局、その個人がどう考えるかについて規制がないことを 意味する。だから、社会的通念で個人の行動が規制されることの多い 日本とは違う。例えば、英語では世論はPublicOpinionsという。複数形に なっていることに注意したい。日本で世論というのは、多くはThe Public Opnionという意味で用いられる。 個人主義を標榜すると他人が全く 自分の好きな事を始める、そこでおこる摩擦は約束=憲法によって決する しかないと考えのは自然な帰結といえよう。アメリカ市民権を得るために 憲法に忠誠を誓うと言うプロセスがあるのは、単なる形式ではないようである。
多様性と個人主義を押し進めると、結局憲法の許す範囲内で自らの規範で 自らの基準で行動をすることが正当なことになる。すると、個人間の様々 な能力に大きなバラツキが出るという結果となり、とんでもなく凄い個人と 何をやらせてもあまりパットしない個人が存在する事になる。聞く所に よるとアメリカの教育の精神は「良き市民」を作る事にあるらしい、それなら 個人主義と多様性、それを調和させる憲法の役割を理解していればいいと いうことになる。だから、何かの能力を均一に育てようなどと言うのは 大きなお世話であって、それは個人が自らの判断で自らの努力によって 身につければよいことを意味する。だから、アメリカでは、トップは 実に素晴らしい能力を持っているので、たいへん合理的なシステムが 次々と生み出されるのだが、いざそのシステムを運営するとなると 実働する部分での個人の能力のばらつきのため、結果として効率の 悪い組織ができあがったりする。よくロストする郵便。効率の悪い 免許センター。どれもこれもイライラさせられるが、それはシステムが 全面的に悪い訳ではなく実行段階での、局所的な個人の能力に依存していることに よるのだ。だから、アメリカの組織では一個人に大きな期待はしないし、 個人主義で個人の規範で精一杯働いている各個人にしてみれば、自分の 能力以上を要求するようなことは全く不愉快なことである。そういう社会では 一人が一つの簡単な事をちゃんとしてくれればいいという発想になる。フォード システムが産まれたのは偶然ではない。合理的な分業が発達するのは当然の 帰結なのである。とかく何でも器用にこなす日本に較べて、アメリカは相当 できない個人でも十分目的が達成できるシステムを作る。 アメリカのシステムが世界に通用するのも当然なのである。おそらく 日本のコンビニシステムなどは世界に誇るべき洗練されたシステムだと思うが、 実行段階での個人の能力に依存する所が大きい。きっと、アメリカでは実現 できないに違いないし、その他の国へ持って行くにもいろいろと適不適があり そうだ。要するに普遍性を獲得しにくい。個人に何事かを暗に期待でなくても 効率的に動く普遍的なシステムを構築する時に考えなければならないことは多い。 アメリカで大成功したシステムが世界で適用が容易なのは当然である。それに しても、そのような普遍システムを構築する個人の能力というのは実に凄まじい ものだと思う。
今回の選挙戦のような、有り様は例えば日本ではありえない事だろう。 選挙管理委員会の開票結果を万が一も疑う人はあるまい。それだけ日本人の 個人個人の能力の下限が高いということだ。中には票の数え方に工夫をする 人もいるだろう。誰かが指示した訳でもないのに、である。それは日本人個人 の持つ能力の高さだと思っても良いが、その能力の画一性が期待できる分、 システムにはそんなに工夫はいらないだろう。今回のアメリカでの開票の 結果はまさにシステムの不備を指摘するものであるが、個人の信頼性に ついて議論する事は起こり得ないので、次回の大統領選挙のシステムの方が 大きく変わる事だろう。再びアメリカの優秀なシステムエンジニアの 活躍の出番である。
もちろん、アメリカがいいとか、日本がいいとか、そんな結論は出しようも ないし、出す必要もない。それがアメリカであり、日本なのだから。それぞれ が自分の国のやりかたで問題を解決するだけである。(むしろその自らの行き方や やりかたを意識化することが肝要だと思うが、それは今回の話題ではない。) ただ、やりかたの違う国のことを見る時は気を付けないと、妙にその国が パラダイスに見えたり、とんでもない場所に見えたりするので、注意が必要だ と感じるだけである。
Thanks Giving Day (11/24/2000)
11月第4週はThanks Giving Weekend Holidaysである。木曜日から の4連休である。感謝祭といえばターキーを食べる日である。由来はお腹を 空かせたPilgrim達にIndianがターキーを振舞ったという故事(事実)にあるらしいが もはや、そのような由来はどちらでもよい。日本にいると、この日がどのような 感じなのかはよくわからない。2年程前にサンフランシスコに学会参加 したのが感謝祭の週だったが、その時の記憶ではとにかく11月23日の木曜日 は全米のほぼすべてのお店がしまっており、その日は郊外への現地ツアーに 参加して時間をつぶしたことを覚えている。
はっきりいえば、この日は日本で言う「正月」である。家族は皆 家におり、縁起物の鯛のお頭ならぬ「ターキー」を食べる。この日は アメリカのお店は休み。街にでれば、いつもは活気あるWestwoodも 閑散としていた。昨日のテレビもいかにも正月らしくインディジョーンズ 3本連続放映とか、「Shaggesgiving Day」という、なんとも恥ずかしい タイトルを掲げてAstin Powersが流れた。オトソ気分全開だ。
今日の朝(1月2日にあたる)は、町中に行列ができている。というのも 感謝祭の次の日は、多くのお店で、しかも朝6時や7時というとんでもない 早い時間からThanks Giving Saleが行われるからだ。朝のテレビでは、開店 を今か今かと待つ客の長い列を映し出していた。もうクリスマスシーズンと いう事もあって、電気屋や玩具屋などの早朝セールが人気のようである。 これも感謝祭の一コマとして恒例になったものだと友人に聞いた。我々は そういう行列をよそ目に早朝から起き出して(だから早朝のニュースを 見ているのだが)、一泊二日でSan Diegoへ小旅行である。正月二日から 城崎へ温泉旅行といった感じである。
数学のこと(11/30/2000)
昨日、大学の生協で学術研究の書籍のセールが開かれていた。Springerなどの 本(日本で言う所の洋書)が一律13$99¢で売られていた。各種手当がカット されて名古屋大学からの給料が実質目減りしている現状で本を買うなどは贅沢極まり ないのだが、本は財産という基本姿勢を貫くことにして、めぼしい本を5冊程 購入した。どれもSpringerから出版されている本で燃焼合成の理論の本、Euler 方程式の理論の本、環境問題に関する数学的研究の本、流体の本、そして解析学 の歴史の本である。これだけ買ってもたったの7500円ぐらいなので、たいへん いい買物だといえよう。アメリカは鞄や財布などといったブランド物の値段は決し て安くないし免税店もほとんどないので買物には不向きだと思っていたが、学術 研究書は安い。これなら商売ができる。それはさておき、家に帰ってから早速解 析の歴史という本を読み始めた。まだ古代ギリシャまでしか読んではいないが、 たいへん面白いと思っている。一つ寝る前の楽しみが増えた。
一部エピソードを挙げると、古代バビロニア人は自然数だけを数と考えていた らしい。それはギリシャ人にも同様に引き継がれてたようで、古文書によると、 ギリシャ人の間には「すべての数量(面積だとか長さだとか)はすべて自然数で 記述できるという信念」 があったという。しかし、実際に面積を測るとそういうことはない。そこで 「比」の概念が持ち込まれた。それによって全ての面積は何かの面積の 「自然数倍」として表現できる考え、彼らの自然数崇拝を支持する形 で解決が見られたのである。現代人は「比」と「有理数」は同じもの だと教えられるが、人間の精神史の上では決して同じ物ではなかった ことがわかる。しかし、その理論の上でも測れない長さが存在すること になった。「面積が2になる正方形の一辺の長さ」である。これは結局 無理数の概念へと拡張されるのだが、そうはならずにギリシャ人は「作図」 によってその長さを表現しようとした。代数方程式の幾何学的解法とでも 呼ぶべき物だが、この発想がいわゆる「作図問題」を生み出したとある。 (本にはその方法が書かれていて面白かった) 余談だが、このような時代 であるにも関わらずピタゴラスの定理はすでに周知の事実であったという のは(年代をみれば当然なのだが)驚きである。
とまあ、こんな具合にストーリーが展開するが、もちろんその後、 ルネッサンスがあって、Newton, Leibnitzらを経てEuler, Riemannらの登場 がある。それは今後本を読み進めれば、楽しい発見があるかもしれない。 何にもまして人間の思考の歴史としての数学は、偉大な人類の財産であるような 気がする。解析学(calculus)と言えば、単なる計算技術の集大成と古来の人類 の知恵の結晶という面があると思う。通常我々がCalculusと言う場合は前者を 考えることが多い。しかし、これを一つの修得すべき技術として考えた時、 それは無基質なものとなりこれを学習する事は人によってはある意味で苦痛と さえ言える。大学などの教育現場では、短期にこれらの技術を修得させなけれ ばならないという要請から、効率を重視した教育が行われる。最悪の場合は丸暗記、 よくても既に理路整然と整えられた理論の積み重ねを辿っていくという形である。 しかし、例えばEuclidが始めからその5つの公理を知っていたわけではあるまい。 そこには様々な思考と試行があったはずである。そういう課程こそものを考える事 の楽しみの真髄があると思うのだが、そこは割愛されてしまう。それはある意味で 仕方ないかも知れない。数学の技術を学ぶのに歴史まで立ち入らなければならない というのは、ナンセンスだと言える。というのも歴史を超越した虚構(といっても これは偉大な虚構-The fiction-であるが、)こそが数学の価値そのものなのだから。 が、一つ忘れたくないのは数学という虚構の構築には必ず現実からの要請があったと いうことである。雲の名かから突然湧き上がった虚構なら、それは真実味を 帯びてはこない(単なる a fiction に過ぎない)。現実の要請によって駆動される 思考の結果生み出された「The 虚構」だけが、数学として意味をもつものと 私は考えている。
翻って今の自分の研究を見るとき、これは自分の方向性を確かめるよい 基準になる。「応用数学」という言葉は、その概念があまりにメタなために 「何でもあり」の代名詞のように受け取られることがある。また人によっては 「応用数学」ではなくて「数学応用」ではないかという批判をぶつける人 もいる。この二つの態度は、そのコメントを発する人の立場によって決まるよう で、前者はいわゆる「純粋数学」後者は「物理」を専攻している人のように 思う。が、この批判は決して悪意に満ちたものではないと思う。どちらも応用数学が 陥りやすい落し穴を的確についたコメントだと感じている。技術として蓄積された 数学のテクニックを使うために現実からネタを選べば、結果と現実の吟味を忘れて 現実には起こり得ない現象を記述してしまうことがあるかもしれない。それは本末 転倒な話である。一方、現実を大切にするあまり普遍性を帯びない虚構を作っても それはあまり意味はなさそうだ。と、偉そうなことを言っては見ても、実際には この批判が規定する落し穴が口を開くフィールドにそびえる現実と虚構という山の 間に張られた一本綱を渡っているようなもので、常に注意をしないとバランスを崩 せば、穴にころがり落ちてしまう。いっそのこと、自分は現実を重視するとか虚構の 美しさの方を重視するとか、自分の立場を規定する方がやりやすいのだが、それを せずに苦しんでいるところに本当の進歩がある。それは数学の歴史が語っていると 思うのだが、どうだろうか。
うーん、まとまりのないことを書いてしまった。

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