LA徒然草(5月)

5月の記録

縦割り社会 (5/6/2001)
2月の交通事故の処理はまだ終わっていない。あれから 3ヵ月も立つのに、一切お金が動いていないのだ。最終的にはこちらの 不慣れから来る支払処理の遅れが原因なのだが、今回発生した治療費に ついて、私が入っている健康保険もそれから今回の事故車の入っていた 自動車保険もどちらも払う気が十分あるのに、誰も払えていないという 異常な状況が続いているのである。なぜこのようなことになったのだろ うか。ちょっと考えて見た。まず、事故の経緯を思い起こすと、事故を して、念の為にUCLAの救急病院へ行った。その時に受付で支払保証 のために自分が加入している健康保険会社の保険証を見せた。したこと はそれだけである。こうすることで、最悪の場合は(つまり自動車保険の 方が十分なお金を支払わない場合)私の健康保険がお金を支払ってくれる。 だから、その時は安心したのであるが、実はこのことが現在の異常事態 を招くことになったのである。
幸い今回の事故の治療はこれ一回で済み、後遺症も全くなくて 支払い義務があるのは、事故後の治療のみであった。さらに 幸いなことに自動車保険会社であるAAAは今回の事故の支払いを 搭乗者保険の枠内で最大限支払うということを約束したので安心していた。 あとはAAAに病院から請求書を回してもらえば万事解決かと 思えたが、その旨をUCLAのメディカルに告げると、それはできない と言う。理由を尋ねるとAAAは今回の「治療行為」における第三者 機関であり、(ちなみに当事者とは治療を行ったUCLAと患者である 私、それから支払い責任のあるという意味で私の健康保険会社)そこへ 患者の情報を渡すことはUCLAの定める個人情報守秘の法律に 抵触するということであった。請求書ぐらいどこに送っても良さそう だが、支払いの義務が発生した保険会社は、病院の治療費の内容を知る為に 患者の受けた治療の情報、つまりカルテを調べる必要があるので、 それを当事者でないものに公開できないということだろう。さすがに 法律がすべてのアメリカだと思って感心したが、どうしようもないので、 ではどうすればいいかと尋ねた。すると、受診時に教えてもらった健康 保険会社に請求書は自動的に送られるので、そこからAAAに直接送ってもらったら どうかということ。要するに、今度は「私+私の健康保険会社と AAA」が「治療費支払い」についての当事者となって、そっちで 解決すればいいじゃないかという提案であった。
しかたがないので、私の健康保険会社に連絡をした。まずこちらが 告げた内容としてはUCLAから請求書が来るが、とにかく それに対してお金を支払わないで欲しいということと、請求書をAAAに 回して欲しいということであった。それに対して帰って来た返事は、 お金の支払いはとにかく延期する、また今回の事故で生じた治療で、 AAAが払い切れなかった分については私達が責任を持って支払うという ものであった。「なかなかいい対応ではないか」とおもったのだが、 問題はその後にあって「しかしAAAに請求書を回送することは私の 会社ではできない」と来た。 ではどうすればいいかと聞くと、AAAが UCLAから貰えばよいと言うのである。それができないから聞いていると 聞いたがとにかく私達は請求書を回せないという。それがこちらの決まりだ と。どうもクライアント情報を守るという義務がこちらにもあるらしい。
これはどうもおかしい話である。クライアントが希望して請求書を 回して欲しいと言っているのにもかかわらず、そのクライアントの個人情報 を守る為に設定された自らのルールのために自分たちがクライアントの希望 を受け入れられないというジレンマである。みんなが当事者になって、今回 の支払いに対してクライアントの要求どおりに支払いを済ませるようするのが 本来であるのに。結局はそういう便宜を図ってばかりいると、何かの加減で 裁判になったら、自分達にも責任がまわってくるからかもしれない。とにかく 権利と義務がお金で対価される社会では、融通はきかせるよりきかせない 方がよいというものらしい。これに対してクライアントは結局法的に争って こういう不都合を取り除く為に頑張るのがアメリカ流というものだろうが、 一回の治療費5万ぐらいで、弁護士を立てて争うなどは面倒いがいの何者 でもない。(これも日本人の私だから思うことで、アメリカ人はそれが例え $10であっても、自らの権利を侵害されればそれを守るために訴えて出る。 このマメさには驚く物がある。)
請求書はすべて私の健康保険会社にいき、支払うことがかなわず いろいろ奮闘して結局どうしたかというと直接UCLAに言って自分に 請求書を回してくれとお願いしたのである。一旦自分の手もとに持って来て それを自分が払って欲しいと思う保険会社に回すのが一番簡単であるという ことに気が着いたからである。がまだその請求書は私のところに来ていない。 今度は郵便がうまく機能していないようである。どうでもいいが、もう少し いろいろなことがスムーズにいかないものか。
動物愛護? (5/9/2001)
先日、科学研究の為の動物実験の禁止を求めて学生が抗議デモ をした。このグループはUCLAの学生組織の中でも過激派として しられているようで、UCLA警察が監視する中での行進となった。 参加者は黒服(動物への哀悼を表しているらしい)を身にまとい、 サングラスに頭巾をかぶって、警察に顔写真をとられるのを 防いでいる。私が学生の頃にも、そういう学生は毎日みたが、 主張が動物愛護であるという点が違っている。
動物実験を医学分野で使うことは動物の生きる権利を奪う ものだというのが彼らの主張であるが、それが歪な動物愛護である ということは彼らが過激派であるという所からも十分に察せられる。 おおよそGreenPeaceも、そうだが動物を守る為に人間を傷つける などということは本末転倒はなはだしいもので、それでも、自分が 人間の中で動物の気持を考えて、動物を虐待する「人間ども」を やっつけるという構図は、やっている本人に一種のエクスタシー を与えてしまうので、厄介な人々である。こうなると一種の宗教に 等しく、もはや動物愛護などではない。
基本的に環境問題とは何かと言えば、それは「人間が快適に 生存できる為の」環境を維持しようとする場合に生じる問題群で あり、決して他の生物のためではない。環境と言えば、二酸化炭素 が増えようとも、オゾン層に大きな穴が開こうとも、それから多くの 生物が絶滅しようとも、それは一向に構わないのであって、それでも 環境はある。ただ、その環境に適応した生物だけが生き残るだけである。 人類は昔は自分たちだけが快適に過ごすための環境を追求して、それで 大きな繁栄を得たのだが、その繁栄を続けるためには、自分達だけでなく 他のありとあらゆる生物をできるだけ大事にしなければならないと最近 気がついたに過ぎない。
動物を殺して人間の生存に資する、それはエゴである。しかし それをエゴと知りながら、実験は必要だし、でもあまり動物を殺しすぎると 自分達の環境が脅かされるという矛盾の中で、人間はぎりぎりの選択を しているわけで、その努力を惜しむことはしてはならないが、それを 動物愛護の精神に反するというのはおかしい。あえて言うなら、動物 愛護を訴えているあの学生達は、毎日十分すぎる程の肉を食べ、それを 残したり捨てたりしている回りの人を見てもなんとも思わないのだろう か。環境といいながら、ゴミを減らす努力もなく、たべものを粗末に することをなんとも思わない。食べることは人間の生存に欠かせないのだ と反論するかもしれない。それは当然だ。動物実験もそうなのではないか? あなたたちが飲んでいる薬の裏にはどれくらいの動物が実験に使われて いるのか知ってて飲んでいるのか? といいたい。
おおよそ人間の技術と言うのは多くのリスクの上になりたって いるわけで、それを出来るだけ低減する努力にエネルギーが費やされること が望ましいのだと思うし、基本的に人間生存のための環境問題であるという スタートにたたなければ現実的な解決は見えないと思う。
多様性 (5/12/2001)
最近日本でも多様な価値観という言葉を聞くようになったが、 その本場と(少なくとも日本では)されているアメリカに住んでいる と、多様性という言葉の意味しているニュアンスが異なっていると いうことに気がつく。
多様性というものを木に例えて見ると説明がしやすい。個人の 多様性というものを木についている葉っぱの量と置き換えて見る。 この時、多様性が増すと言うことは、この葉っぱの量を増やす事を 指すとしよう。そういう意味ではアメリカは多くの葉っぱを持っているように 思うが、実は日本が目指している葉っぱの増加とは基本的に違う面が ある。それは木の根っ子の部分である。アメリカに葉っぱが多いというのは それは木の数が多いからである。木の数とは人種の多様性といおうか 文化圏の多様性といおうか、そういうものに対応している。アメリカに 住む人々は少なからず自分の出自としての人種あるいは昔のオリジナルの 文化圏をもっていて、程度の多少はあるとしても、皆その背景の上で 生活を営んでいるのである。日系と言う木、イギリス系という木、あり とあらゆる木がある。それぞれが、それぞれに葉をつけているのだから、 その葉のバラエティーというものはそれは見事なものだろう。
一方日本が目指す多様性と言うのは一本の木の上の葉っぱの量を 増やす努力のように思う。根っ子の部分が違うと言うことは考えにくい。 日本人は自分の国を単一民族国家と規定することが多いが、それは人種 はともかく、この根っ子を共有する国を国家とさすならそれは正しいよ うに思う。最近は在日の人々 (この言葉も、その意味内容をを ちょっと考えれば不思議な話しではあるが)を除く、外国籍を持つ人々が 日本に住むというケースが多くなったが、彼らが日本社会に入って、そ の多様性の一つに数えられる為には、日本の根っ子の部分、つまり文化、 言い方が堅苦しければ(日本語の修得を含む)日常のたち振るまいを身に につけなければならないということからもわかる。異なる文化圏の人が 日本人の多様性としてカウントされるための条件というのはアメリカに 比べてかなり厳しい。それは自らの根っ子(文化)から離脱して、日本の 根っ子が支える木に自分を継ぎ木しなければならないからだと思う。
この違いは別にどちらが悪いとか良いとかそういうものではない。 アメリカの強さは根っ子の多さから来ており、一つの根っ子が何かの拍子で 弱くなっても他の根っ子があるので、それが頑張れば国としての基盤がゆら ぐことがない。一方日本では一旦根っ子が揺らぐと葉っぱ全体がゆらぐこと になるので意外と脆い面がある。しかし、アメリカはこの根っ子の違いからくる 衝突が多く、それぞれの根の異なる葉っぱを完全に信頼するのは難しいという 面があり、そこからくる社会不安が結局は銃の問題や人種差別の問題を根強い ものにしている。文化の違う人が住む社会では根っ子の違いを埋めるよりも それぞれの根っ子が等しく自分の根を張れるように法律のという約束の元で 対立し融和するという繁雑なステップを経なければならない。アメリカに来て 基本的に感じるのは、たとえそれが隣人と言えども、その人の根っ子が違うと いうことからくる不安である。その不安を解消するには相互の約束に従うこと しかなく、荒っぽくいえば、つまりは合衆国憲法に従うかどうかということ だけによりかかっているように思うのである。(それが期待できそうにないので 不安なのだが) 逆に日本ではいくら変わっていても根っ子の部分は同じなので、 基本的な安心感がある。社会的な安定はアメリカよりも日本の方が絶対に大きい。
これは単なる違いである。だから、こうした違いを考慮した上で 自分の国における多様性を増やすための努力がなされなければならない。 アメリカはこの多くの木が同時共存できるような環境を整備することに エネルギーを注ぎ混むことが大切だろう。一方日本では、日本がアメリカ のような多くの根っ子を許容することで葉っぱを増やす社会を構築する なら話しは別だが、その葉っぱの多様性を支えるための根っ子の部分を 強くするための方策を打って行かなければならないと思う。その方策 とは根っ子を知る所から始まるのであって、アメリカの制度の良い面だけ を継ぎ木しただけでは本質的な解決にはならなように思う。勿論継ぎ木 も悪くはない。しかし、それは根っ子がしっかりしている場合にのみ 有効だと思うので、少なくとも根っ子をしっかりするという努力をしな ければならないのは変わる事はない。その上で思うのは今の日本の教育 の抱えるいくつかの問題は継ぎ木をするだけで解決するものではなく、 この根っ子の部分に関わっているということである。単にアメリカの 競争社会と実力社会を持ち込むのは危険だと考える理由はここにある。
サウスウエスト航空 (5/15/2001)
最初に断っておくと、ノースウエスト航空というメジャーな航空会社 と間違えてつけられたタイトルではない。アメリカにはサウスウエスト航空 と呼ばれる冗談のような会社が存在している。会社の概要などはここで書いても 退屈なだけなので割愛するが、特徴はとにかく値段が安いという点にある。 たとえばノースウエストでLAとデトロイトを往復すると早朝深夜割引便で $280ぐらいするが、サウスウエストだと、その気になれば$180ぐらい で行ける。日本と違って鉄道が現実的な都市間の移動手段になりえない ので、貧乏だが無類の旅好きの人々(私のような)にとってはサウスウエストの 存在価値は大きい。
さて、安いのはいいことだが、当然安いには安いだけの理由がある。 それは徹底したコスト削減である。チケットの発券もEチケットなので余計な 書類は発生しない。予約して購入して、当日空港のゲートへ直接行って予約番 号を言えば終わり。さらに座席指定などと言う面倒なステップもない。ゲート での手続きを終えると、受付順にいかにも使い回しという感じの整理番号の書 かれたプラスチックのカードが渡され、搭乗時に、その番号の若い物から好き な座席に座れるという仕組みである。いい席につくには早く手続きすればいい。 わかりやすい。コストは手続きだけではない。私が経験した限りでは、飛行機 は古い(のが多い)。いつの時代やねんとおもわずいいたくなるような機内レイ アウトである。客室乗務員は3人いるが、彼らに制服らしきものは支給されな いらしく、それぞれがそれぞれの私服を着ており、胸にサウスウエストのバッジ (さすがにこれは支給されるようだ)がなければ客と見分けがつかない。まだお目 にかかった事はないが、夏ともなると半パン姿の客室乗務員も出現するという。 たしかに制服などは別になくても業務に影響はないから許すことにする。
飛行機の中でのイベントといえば機内食である。勿論国内線なのでそれほ どすごいものがでるわけもないが、我がサウスウエストにもそういうサービスは ある。ただ、飲物はカートで運んで来るのではなく、喫茶店のように注文をとって 後で乗務員が運んで来る。どうやら飲物は缶単位で購入しているのではなくタンク 単位のようだ。また、コーヒーは激薄でおいしくなかった。がこれもコスト削減で ある。そして、長時間のフライトともなるとスナックではなく食事が出る。出るに はでるが、これまた大量生産の統一規格機内食−その名も「The Real Fast Food」 −が出る。これがまた凄まじい内容で開けてみると、中にはサラミのスティックと ぱさぱさのブレッドスティックが2本とこれにつけるチーズ、あと何やら不明な味 のするお菓子。以上である。確かにこんな機内食は他に類がなく、その意味で[The] を冠するだけの意義は十分ある。あるが、はっきり言って、これで自分で機内におけ る食欲の充足は得られない。しかし、これも経費削減だと思って諦めて、サウスウ エストに乗る時は自宅でオニギリを作って持参する。なれるとピクニック気分で 楽しいものだ。
機内サービスのコスト削減だけではない、路線設定もまたすさまじい。 特に東西の海岸を結ぶ路線にノンストップの設定はほとんどない。中には まるで、電車の各駅停車のように東から西へいくのに3回ぐらい途中の飛 行場でおりる便もある。その度に客を入れ換えるので、もちろん時間もか かる。下手をすると途中後機の上、別便に乗り換え2回という路線もある。 こうなると乗り換えの度に2時間ぐらい途中の空港で待ち続けることになるので、 飛行機のメリットなどは微塵も感じられなくなる。が、できるだけ客を空にせず 運行しようと思ったら、こうせざるを得ない訳だから、値段の安い飛行機に乗っ ておいて、いまさら怒っても意味がない。気の長さも格安旅行には必要な要素 なのだと悟る。
とまあ、要するに時間はかかるは機内サービスはとにかく目的地に スケジュール通りにつけばそれが、サービスだといわんばかりに何もない。 客室乗務員を普通のテレビコマーシャルで募集するくらいだから、大手 の航空会社に比べて乗務員が洗練されていないといが、とにかく安いには 違いない。だから、そういうサービスは不要だと思えば安く旅行出来るの が嬉しい。最近のテレビコマーシャルで知ったのだが、この航空会社は 5月24日までに9月までの航空券チケットを購入すれば全米どこへ行っても 片道$99というキャンペーンをしている。同じゾーンなら片道$39である。 これにつられて夏休みを利用して東海岸の友人の所に行くことにした。JR に18切符があるように、アメリカにはサウスウエストがある若者の強い 見方だ。(ほめてるのかけなしてるのかわからない文章になってしまった。)
ホームレス列伝補足の補足 (5/18/2001)<
先月サンフランシスコで見た、25¢ホームレスのおじさんが最近再び LAに帰って来て、そしてまた同じようにお金を乞い始めた。この短期間で サンフランシスコから帰って来るだけの収入を得たのか、あるいは既にLAから の往復チケットを購入していたのか。とにかく彼は帰って来た。どこかで 洗濯したのだろうか服も美しくなっている。謎は深まるばかりだ。
電力危機 その3 (5/18/2001)
ブッシュ政権は現在カリフォルニアを襲っている電力危機や、 全国的に値上がりを見せるガソリン価格などのエネルギーの慢性的な 不足状況に対して、原子力発電所の新規建設の許可、アメリカの大地に 眠る天然資源の採掘規制の緩和などの政策を打ち出した。この政策決定 はまだ案の段階であるが、これが上下両院を通過することになれば それは原子力政策と環境政策における大きな転換ということになる。 (もちろん風力や太陽光などの新エネルギーの開発などへの転換も 上げられているが、それはいままでと変わりない程度の取り上げかたで あるために、それほど目新しいものではない。)
確かにここ数ヵ月のガソリンの値上げのスピードは凄まじい勢いである。 私がLAに来たころ一ガロン(3.89l)あたり$1.67ほどであったガソリン 価格が現在は$2に迫ろうとしている。全米平均価格もこの半年で約30¢ ほど値上がりし$1.7ほどになっている。日本のガソリン価格に比べればま だまだ安いが、もともとこのレベルでの資源調達をベースに構築された経済 システムを持つアメリカではこれは生活に関わる由々しい事態であることは 言うまでもないだろう。(ただ、この値上がりの裏で石油会社は過去最高の 収益を上げているという事実は見逃してはならない。今回の石油の高騰の 原因が何からきているのかが明らかでないからだ。投資による人為的な 価格操作の可能性も否定できない。また、ブッシュ大統領出身のテキサスは巨大 石油会社の地盤でもあり、今回の政策がそういった石油業界への優遇政策 となるという一部報道もある。)
カリフォルニアの電力危機では、「これはカリフォルニアの問題」として この問題に大きな関心を払いながらも、特別な政策を展開して来なかった ブッシュ政権であったが、このガソリン急騰に続いて、ニューヨークなど の都市でもこの夏の電力不足が叫ばれるに及んで、ようやく何らかの政策を 内外に示さざるを得なくなったという感じである。その試案の一つが最初の 政策群である。ここにも連邦政府の役割と権限の制限が見えかくれして面白い のだが、それはさておいて、要するにエネルギー危機が全国レベルで緊急の 課題になったということだろう。国民の関心事に何らかの政策を講じるのは 政府の基本的な活動である。足りない電力に対して節約を訴えるのは勿論であるが、 それは短期的な方策でしかなく、根本的な解決はやはり何らかの政策によって 達成されなければならない。したがって、今回の政策発表は一つのエネルギー 問題の解決法としては確実に効果をあげるものと思われる。
しかし、今回の発表は一つ別の問題を生んだ。それは環境問題との 衝突である。結論から言うとブッシュ政権はやや失速気味のアメリカの景気 を立ち直らせるには、エネルギー危機も含め、環境に譲歩する姿勢はあまり ない。アメリカ人の環境に対する取り組みを身近に見ている私からすれば、 これはアメリカ人の大半の考えを代表しているような政策のような気がするが、 一部の環境団体や本当に環境のことを考えている人々にとってはこれは愚の極みの 政策といわざるをえないだろう。スリーマイルの事故以来凍結されて来た原子力 発電所の建設が解禁されるというのもそうだし、アメリカの地下資源はそのほとんど がアラスカなどの自然保護区域の中かあるいはその近郊になるために、地下資源の 採掘規制の緩和はそのまま環境保護区域への規制の緩和となる。これが、どの ような結末を迎えるのかはわからないが、やはり自分達の生活が最優先で環境は その次という考えに立てば、ブッシュ政権の政策は指示されると思われる。 (と考えていたが、最近の非営利調査機関によるアンケートによるとカリフォルニア の住民の56%がブッシュの電力危機に対する政策を評価していないということが わかった。ただし、これは政策がまだまだ生温いという意味で評価していないのか、 環境を軽視しているとして評価していないのか、それはわからない。)
環境とエネルギーの両立が叫ばれる現代の世界において、アメリカは一方 (環境)を捨て去るという手段をとったわけだが、もともと日本にはそのような安 易な選択がゆるされない。もっと緊迫したエネルギー情勢が日常化しているわけ だが、それでも計画停電などといった事態にならないのは、オイルショック 以来とりくんできた節電政策や日本人の節約のメンタリティーなどが大きな影響を 持っていると思われる。その意味で日本人は歴史から学んでいる。日本では環境へ の取り組み環境に配慮した新規エネルギーの開発への取り組みがこの厳しい国内事 情のために重点的に進めれていることを考えると、10年後の日米の姿は環境とエ ネルギーという面ではおおきな違いができるものと想像できる。余談だがCOPの京 都議定書の批准で米と日欧にもめごとが発生しているが、これもいわば上記背景を 前提にしたブッシュ政権の政策であることを思えば当然のことのように思われる。 少ないエネルギーをいかに大切に使うかに神経を使っているヨーロッパや日本から 見れば、世界の電気の50%を消費するアメリカの対応にはなんともいえない複雑 な感情を抱くわけだが、ここにアメリカ一国の幸せを追求する姿(それは国として 当然のことだから、別に責めはしないが)が見える。(
電子投票 (5/20/2001)
先日UCLAの学部学生自治会の会長と役員を選ぶ選挙が行われた。 私のような外部者にとっては、その結果を評価する材料はないが、一つだけ 目を惹いたことがあった。それはこの選挙をインターネットによる電子 選挙で実施しようという運動が選挙前に起こったことである。結論から先に 言うと、推進派と慎重派の間にいろいろと政治闘争があった末に、今回の選 挙は例年通り投票所に行って紙に記名する投票方式が採用された。今回はその一連 の動きについて書くことにする。
そもそも電子選挙を導入しようと言う機運が高まるきっかけとなって いるのは、なんのことはない、単に最近の自治会選挙の投票率の低下が深刻 になっていることよる。個人的には、平和な時代はどこもよく似た問題を抱える ものだという印象を受けるのだが、UCLAでも過去5年で平均して20%程 の投票しかなく、有権者の大学自治への無関心が問題になっていたわけである。 そこで、低下した投票率を少しでも上げる為に、在宅しながらネットを通して投 票をするという方策が提案されたという訳である。選挙に手軽に参加できるので 高投票率が期待できるということと、一つは目新しさもあって、魅力的な解決 方法の一つとして浮上してきたのだ。しかし、一般にそういった提案は日の目 を見ない事が多い。理由は選挙の公正さを維持する上での安全性の問題がある からである。したがって、ここでも旧自治会の中でこの案件に関して賛成派と 慎重派が構成され活発な議論が行われたものの、全般的な雰囲気としては、この 手の新しい方法の提案は安全性と機密性を理由に却下されるかに思われた。
しかし、そこは優秀な頭脳を要する大学のこと、推進派の学生もその問題 をクリアするための方策を打ち出した。電子投票をHPの上から行おうという ものである...とだけ書けば陳腐なアイデアに過ぎないようだが、彼らの 計画はUCLAの特徴を活かして巧みに練られたものであった。前にも少し 書いたが、UCLAはすべての教員学生、関係者にBruin Cardと呼ばれる顔写真 つきのIDカードを発行する。そのカードには所有者固有の番号が振られており、 大学で個人の識別を行う時はその番号が利用されている。これを使って、HPか ら投票す際の有権者認証を行えば、他人になりすまして複数の投票を行うことを 防ぐことが出来るというわけである。一方、UCLAでは学部学生のために MyUCLA.comというサーバーを管理している。このHPを使って、学生は普段から 今の自分の成績確認や授業の情報、それから宿題の提出などの学務の多くをこな している。推進派はこのHPに目をつけたのである。なぜかというと、このHP には多くの個人情報が含まれており、そのログイン認証は個人の責任の下で厳重 に行われている、そのログイン認証と同じステップで選挙の認証も行う事にした のである。自分の成績を見られるかも知れないと思えば安易に自分のIDの 番号やパスワードを他人に教えたりはしないだろうし、普段から利用している HPであるから、選挙をHP利用のついでに行う事も可能になるというわけである。
結構うまく考えた物であるが、それでも慎重派から誰かがサーバーに無断ア クセスして選挙のデータそのものを書き換えたらどうするという反論があったため に、電子選挙はこの時点でもまだ実効性に疑問がなげかけられていた。しかし、 その効果が示される機会が去年にやってきたのである。それは自治会のある役員 が事情により自治会を抜ける事になり、その補欠選挙が行われた時のことである。 自治会は山積する仕事を中断して選挙の為の準備をすることが出来ないとの理由で この選挙に限り電子選挙での選挙の実施を暫定的に認めたのである。その結果は、 特に大きなトラブルもなく終了し、そして投票率もぐっとアップして推進派の思 惑通りの効果を生んだ。
この結果は少なからずUCLAの他の団体にも影響を与えた。学生自治会より もっと深刻な投票率の低下のために、選挙で選ばれ何らかの政策を施しても信任に 必要な得票すら獲得できてず、もはや何の存在価値を失い欠けていた大学院学生自 治会がこれに目をつけたのである。彼らは今年の自治会選挙を電子選挙で実施した。 そして結果は例年にない得票率を獲得(といっても8%の投票率が20%近くになっ たというだけだが)することになり、自治会としての活動を機能的に再開できるメド を立たせることに成功したのである。この結果を受けて推進派は俄然自信を深め、 今回の自治会選挙は電子投票による投票も認め得られる物と予測したのだが、 結局最終的には否決されることになった。その裏にはあまりよろしくない多数派工作 なんかもあったりしたらしいが今回は慎重派の意見が採用されたのである。
回りを見舞わして見ると、現在UCのいくつかの大学では電子選挙が行われ ているが、まだLAとBerkeleyの二大校では実施されていない。しかし、推進派 と反対派ではなく推進派と慎重派に分かれての議論であるから、電子選挙そのも のを否定することはない。だから、いずれ時期が来れば電子選挙が実施される日も 近いだろう。私は電子選挙が行われる事については、十分議論がつくされてるので あれば、コスト減や集計の簡便性の面から悪くない方法だと思う。しかし、投票率 がそれで上がったとしてもそれは目新しさから来る一時の現象にすぎないのではな いかとも思っている。本質的な問題は選挙の投票方法ではなく、選挙への無関心を 生んでいる他の要因にあると考えられ、それをどう特定し、どう解決して行くかと いうことが大切だと思う。
スタートレック・ボイジャー (5/24/2001)
日本にいるときは、いつもいつも深夜の放送でまともにストーリーすら 追えていなかったVoygerであるが、こちらにくればゴールデンで見られるので自然に この放送を毎週楽しみにするようになった。スタートレック版バイファム(懐かしい...) と言うとよくわかるだろうか。要するにアクシデントで自分達のいる宇宙領域から 銀河の反対にある別の宇宙域へ飛ばされた艦隊の宇宙船「ボイジャー」が地球を 目指して帰るというストーリーである。最高速のワープで飛んでも70年かかる 距離を、その時間を短縮できる何らかの新テクノロジーを求めつつ、とにかく 地球に向かって帰るわけである。
そのボイジャーが昨日最終回を向かえた。結局地球に帰って来ることが出来た。 (あたりまえだが。)当初見積もりが70年の予定が7年で帰って来れたことになる。 ただし、昨日の一エピソードだけで16年分近道をしたので、その進み具合は一様 ではない。未来の自分に助けられて歴史が変えられるという結末は無理があるが、 最後にボーグの技術を使って(だまして無断使用だが)地球に帰ったという辺りに 作家の苦労の後が見られる。TNGとDS9はともに大きな達成目標がない設定 であったので、今回のボイジャーはドラマとしてはきちんとした終わり方をした と思う。個人的にはたいへん楽しめた作品であった。
で、秋から新シリーズが始まると言う。そのCMはこうである。"Beyond Voyger, ..." ほぅ、ボイジャーと同時代ではないのか。なら、ピカード艦長のあたりかなと 思った瞬間に次のナレーション "Beyond Picard.." はぁ、もっと前なのかじゃあ カークとピカードの間をつなぐのか、と思ったのも束の間、決めのナレーションが 入った。"Beyond Kirk..." と。そしてタイトルは "Enterprize" だという。"Coming this fall" はいいが、それは戻りすぎちゃうか。だって、それより前の宇宙艦隊 をテーマにするというなら、30年前放送のカーク艦長のエンタープライズ当時の 技術も利用できない。まだトランスポーターも試用段階だった時代より前の話だし、 ましてや通信技術などは...。少なくともカーク船長当時の技術(つまりは1960年 のころのSFでつくり出された技術)よりも前の話を今のSFの基準で描くのはかなり 難しいのではないかと想像する。まあ、話を前作から未来の時代に設定して、最後に それよりも昔にするというのはドラゴンクエストで経験済であるが、あれはある意味で ストーリーに時代考証させるようなネタはなかった。(強いて言うなら魔法の数が過去の 方が多いというくらいか。それもまあ「後世忘れ去られた」とか言ってごまかすことは 可能だがスタートレックはこれまで多くの新機軸を生み出しているのに、それを一切捨 てて物語を展開するというのはなかなかの冒険であると思う。私がアメリカから帰るこ ろにスタートするので、本編を見る事はできないのが残念である。

LA徒然草ホームへもどる