国際関係 (3/4/2001) |
先月、保険の話に関連させて、えひめ丸事件に対する解決の難しさに
ついて書いたが、もう少し話をつめてみることにした。まずはじめにはっきり
しておきたいのは、今回の事故の被害者は日本人であり、その遺族の悲しみや
潜水艦の乗組員に対する怒りはは勿論のことである。当事者である人々が
この事件解明の過程の様々な時点で感情的になるのは仕方がないと思う。
日本政府は最終的にはこれらの遺族が納得できる解決をしなければならない
ことも言うまでもない。しかし、これが国際間の問題であるという立場に立て
ば解決に当たる当事者は勿論のこと、それを見守る私も感情的に対応しては
いけないと思い、半分は自分への戒めの意味もこめて考えてみた。 |
以前書いたようにアメリカの人は事故によって生じる金銭的な賠償責任を
果たす事は当然と考えるが、被害者に直接謝るなどの誠意を見せることはしないことが
多いという。勿論、それは金銭での量刑を決定する裁判の段階において最初から
無条件に自分の否を認めると容赦なく、お金を取られるという法廷戦術的なことが
あるのだろうが、結局のところ法は全てに勝るという法治国家アメリカの姿を見事
に反映していると思う。(日本だと最初に誠意を見せれば、本人が深く反省している
ということで、量刑も軽減されるはずである。)
とにかく、人種も基本的な物の考え方も事なり、共通の歴史も浅いとなると、
なにによってアメリカを統一国家足らしめるかと言えば、それは憲法とそして
そこから導かれる各種法律しかないのだという感じである。人造国家アメリカと
言うのは、そういう国なのだと理解すればよいと思っている。
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前回はそれでこのえひめ丸事件の日米間の感覚の違いがあるために難しい
処理になると書いた。というのも、謝ると量刑が重くなる国と、軽くなる国
のという、善悪の判断の基準が異なる国の間で今回の事故の調査とその量刑
が行われるからでる。がここで、ではどうやってこの問題が解決されるのが
いいのかということになると、それは交渉によって解決するしかないと思う。
私は上記のようなアメリカという国のことがわかったからといって、「アメ
リカにしてはよくやっている、だからまあこれでよしとしよう」という態度
で今回の処理をそのまま容認するのは間違いだと思う。また、逆に日本で聞
かれる「誠意が足りない、被害者の前で土下座して謝らない限り、アメリカ
を許さない」といって感情的に反応するという態度も(遺族を除いて)
間違いだと思う。
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日本とアメリカは違う国である。それはあたりまえのことで、そこに住
む人の常識が違う。一つの物事に対する、感情的な反応も違うであろう。
そういう中で共通に解決すべき問題が発生した時、相手と自分の考えの違いを
十分に認識して、その上で双方が納得する解答を見つけ出すのが交渉という
ものであろう。だから、アメリカのことを良く知り、その立場を考えて
自分達の要求を引っ込めることと、ストレートにアメリカのものの考え方に
反発して感情に走ることは、出てくる結果はかなりちがうが、どちらも
日本人の考え方そのものであって、交渉をするどころの話ではない。
「そんなことはわかっているが、日本人が日本人の考えを押し通して
何が悪い。」と開きなおるなら、もうこれ以上の話は必要がないので、
そういう人は、せいぜい日本人の社会のなかで幸せに内弁慶で暮らして
おればよい。というか、その方が本人にとっても日本にとっても
幸せというものだ。
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事故をしても謝らない国民、日本人から視れば、全く心のすさんだ人達だが
それはあくまでもアメリカ人のある一面を切り取って日本人の基準で簡単に判断して
いるにすぎない。我々は善悪の問題として判断を下すのではなく、事実の認識
として受け取るべきではないか。その上でこちらが満足する結果を引き出す
のが外交戦略というものであろう。とかく国際的な問題の場合は、双方の国から
自分の基準に照らしあわせて過激な意見を吐いて見たり、相手の期待外の反応に
過度の失望をする人々が現れる。そのような人達の意見にいちいち反応していては、
何も見えないし、何も解決しない。そういう人は、どちらの国にもいるのだから、
そういう擾乱に取り合わないということも大切だと思う。とにかく、冷静にことに
当たらなければならないし、実際の交渉に当たっている人々は、そのあたりを
きちんとやっていると信じる。
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私もそうだが、私達はとかくアメリカに特別の思いを持ちがちである。
さすがに60年代のような憧れの国というイメージは薄れたと思うが、その反動
かとも思えるようなアメリカへの批判も結局アメリカにことよせる自分達の
イメージへの裏切りか肯定の結果生じているに過ぎない事を知らなければいけないと
思う。我々はアメリカを知っているようで知らない。というかアメリカ文明が
あまりにも文明としての普遍性を持っているために知っていると勘違いしている。
ある国の一面だけを取り上げて、自分の基準で判断して分かったような気になっている
面がありはしないだろうか。今度の選挙の混乱を見て、アメリカの民主主義に
疑問をもった日本人は多いだろうが、それは日本人が日本人が考える民主主義の
基準に照らしあわせて判断していることはないだろうか。今回の一連の選挙で
これがアメリカ民主主義の問題だという認識がアメリカ国内ではあまり大きな
流れにはならなかった。自分達の基準に合おうが合うまいが、とにかく事実は
事実のまま受け止めて、その事実の一つ一つの積み重ねから浮き上がってくる
全体像によってのみ、その国を知ることはできないと思う。
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かつて日本はアメリカという国を、自らのイメージの米国として描き、そして
流れて来る断片的情報から自分達の基準に合うものだけを取り入れ、そして国の運
命を誤った時代があった。不幸な事にその時代の政治家はそれを自らの意図のため
に利用した。その結果は惨澹たるものではなかったか。その事を忘れて同じような
対応をしてはいないか。戦前も戦後も我々はアメリカという国にある特別なイメー
ジだけを持って、そのイメージだけで物を見ていると言う点では同じであるような
気がする。勿論、こういう面は、どの国にもあるのだろう。アメリカでも日本を
一つのイメージとして捉え、その中で判断を下しているという人も多いと思う。
しかし、そのイメージが各人によってまちまちであり、国全体をわたって
統一されてはいないのがアメリカの一面である。何かにつけ、肯定的な極論と
否定的な極論が入り乱れ、そして程度の大小の議論が入り乱れる。そんな中で
何かの決定をするには、客観的に相手を知るしかないように思われる。私が
こちらに住んで毎晩のように関連の討論を聞いて感じる事は、少なくともまと
もなマスコミや事に当たる政府の中には日本のことをきちんと研究し、正しく
理解しようと勤めている人 (それは決して最終的な答えが出るものでないという
ことを知っているのだ) がいるということである。彼らは我々以上に私達の事を
研究しているという感じがする。そういう状況があるのは、やはりこの
アメリカにおける意見の多様性によるのだろう。逆に日本では共通のイメージを
アメリカ人よりも受け入れやすい環境にあるという点では、国全体を誤った方向
へ導くことが容易であるところが恐ろしい。期待するの
は、戦前と違い正しく相手を理解しようとしている日本人が自らの主張を通すべく
アメリカとの交渉に当たっているだろうということである。
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と、書いてはみたものの、この考えそのものが私の日本人としての基準で
判断されているのではないかと思えたりもする。この危うさを取り除くためには、
私自身がイメージで物を判断しないことだが、それが出来ているかどうか。とにか
くアメリカは、断片的な情報で流れて来るように、ああいう日本人の基準からみれ
ばすさんだ面を持つ国であることは確かであると思う。が、そこをどうこう言って
感情的に判断して見てもどうなるわけでもない。むしろ、アメリカと言うのはあれ
以上でもあれ以下でもないのだから、その実体を詳細に知った上で自分の主張を交
渉によって認めさせるというのが国際関係ではないかと個人的に考えるということ
である。全く、己を知り、他人を知る事は難しいことだと思う。ヨーロッパのよう
に歴史的に自国と他国のイメージのぶつかりあいを経験していればひょっとしたら、
もっとこなれた国際関係が築けるのかもしれないが、アメリカも日本もそういう
日常的に自分達の姿を映す鏡を持たなかったという点では共通していて、わかった
ような気分で安易な話合いをするとこじれることになるように思う。
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