量子推定理論について
量子力学系で観測を行ったときに得られる
測定値については,確率的にしか予言できないことは良く知られている.
この測定結果 ω に関する確率分布 P( d ω) は,
行った測定 M と測定対象である物理系の
(測定直前の)状態 ρ に依存して
P(d ω)= P(d ω | ρ, M) のように定まる.
このように,量子力学が統計的側面を持っている以上,
量子力学の本質的理解のためには,
数理統計学と量子力学を融合させた理論体系の構築が不可欠である.
また同時に,光通信システムを始めとする
量子力学に従うシステムから得られる情報の限界を追究するにも
このような理論体系は必須である.
このような問題を扱う分野は量子推定理論と呼ばれ,
対象とする物理系が量子力学に従うとき,
我々が知りうる情報の限界を統計学の立場から論ずる分野である.
具体的には真の状態があるパラメトリックな集合(族)
S={ ρ_θ | θ ∈ Θ }
に属することだけが分っているという想定の下で,
未知パラメータ θ の値を観測データから
推定する問題を扱う.
ここで,もし族 S とともに測定 M もあらかじめ
指定されていると仮定すると,
確率分布 P_θ(d ω)= P(d ω | ρ_θ, M)
に従うデータ ω を見て θ を推定するという単なる
確率分布のパラメータ推定の問題になってしまうのだが,
量子推定の場合には,指定されるのは族 S のみであり,
測定 M については θ の推定という目的のために
最も適したものを求めることが必要となる.
このような研究は1960年代の後半に
上述の光通信システムの受信過程の最適化に関連して
Helstrom によって始められた.
近年では複数の未知なる量子状態のサンプル ρ が与えられたときに,
各サンプルにまたがる測定も含めて測定過程を最適化する方向が
模索されつつある.
ここで述べた各サンプルにまたがる測定は
複数のサンプルからなる系を一つの量子系(合成量子系)と見なして,
その合成量子系に対する測定として記述される.
このような測定は一般には各サンプルに対する測定を逐次的に行う方法では
構成できない.
各サンプル間のを量子的干渉を用いることによって初めて可能となる測定である.
このような測定は量子相関を用いた測定と呼ばれ,
各サンプルに対する逐次的な測定と推定誤差においてどの程度の
差が有るかが興味有るところである.
一方,量子相関を用いた測定の物理的実現可能性であるが,
背景熱ノイズ中のコヒーレント光の複素振幅と
熱ノイズの大きさを同時に推定する問題での最適測定については
比較的実現可能性が高いと言われている.
このような状況の下,筆者の
主な研究成果は以下の4つに要約される.
ランダム性条件を課した量子推定理論
従来の数理統計学における確率分布族に対するパラメータ推定問題では,
Crame'r-Rao の定理により,局所不偏推定量の共分散行列の達成可能な
下界が Fisher 情報行列の逆行列で与えられていた.しかしながら量子論
では,推定量の非可換性のため,対応する共分散行列の達成可能な下界は
一般には存在せず,同様の議論は破綻している.そのため,共分散行列
(に任意の重み行列をかけたもの)の対角和を最小化する推定量を捜すという
問題設定がしばしば採用される.
この最小値は達成可能な量子 CR bound と呼ばれ
一般には重み行列の取り方に様って下限を実現する推定量は異り,
その推定量を見つけることは非常に困難である.
このため,一般的な問題解決の見通しは現在のところ全く立っていない.
応募者は,局所不偏性条件に加え,推定量が単純測定(単位の直交分解)の凸結合で
与えられるというランダム性条件を課した上で,上記の値を最小化するという
問題設定を採用し,その最小値を実現する推定量を構成すると共に,
この最小値が,局所不偏性条件のみを課した場合の最小値と一致するための
必要十分条件を導いた.
さらにこの結果を適用することにより,スピン 1/2 系の任意の状態族に対し,
ランダム性条件を満たすことを確かめ,
局所不偏性条件のみを課した場合の共分散行列の存在範囲を完全に決定した.
Spin 1/2 系における漸近的量子推定理論
従来の数理統計学における確率分布に対するパラメータ推定では,
局所不偏推定量の共分散行列の達成可能な下界は
Fisher 情報行列の逆行列で与えられ,
サンプル数に反比例することが知られている.
量子論においても,1パラメータの族や
純粋状態からなる族においては
達成可能な CR bound は同じようにサンプル数に反比例する.
しかしながら,混合状態からなる複数のパラメータを持つ族
については事情が異なる.
先の結果を適用することにより,
Spin 1/2 系の未知状態の複数(n 個)のサンプルからなる
マルチパラメータ 族においては,
達成可能な CR bound は
サンプル数が1のときの達成可能な CR bound の n 分の 1 より
小さい値を持つことがわかる.
これはサンプル間の量子相関を用いることにより,
各サンプルに対して同じ測定を行ったときよりも
小さい誤差を実現できることを示している.
応募者は各サンプル間の量子相関の推定論的意味を調べるため,
この n 個のサンプルからなる族の
達成可能な CR bound に n を掛けた値の n → ∞ での極限値
に注目し,
漸近的達成可能な量子 CR bound と呼ぶことにした.
そして,具体的には Spin 1/2 系の混合状態からなる
幾つかの具体的な族について,漸近的達成可能な量子 CR bound を計算した.
純粋状態に対する量子推定理論
有限次元 Hilbert 空間上の純粋状態全体からなる状態族に対する推定問題を
漸近論的枠組みで論じた.
未知状態の独立かつ同一なサンプルが n 個準備されたとの仮定の下で,
サンプル間の量子相関を利用した測定も含めて測定に関して最適化を行い,
最適解に対して平均2乗誤差及び大偏差型双方の意味で漸近的な誤差評価を行った.
続いて,サンプルの量子相関を利用しない量子測定に制限して最適化を行った.
具体的には,各サンプルに対して最適測定を行った上で,
各サンプルから得られた測定結果からデータ処理を行って
未知状態を推定する手法と先の最適解を比較した.
その結果,平均2乗誤差については,一次の漸近論では
両者が一致することが判明した.
相対エントロピーの操作的特徴づけ
ヒルベルト空間上の2つの量子状態間が互いに非可換な場合,
観測により得られる確率分布間の Kullback-Leibler ダイバージェンスは,
常に2つの量子状態間に定義される梅垣相対エントロピーより小さいことが知られている.
近年,日合-Petz は量子状態の独立・同一分布を考えることにより,
拡大ヒルベルト空間上の2つの量子状態間に対して,
それら2つの状態に応じて定まるある測定を考えることにより,
観測により得られる確率分布間の Kullback-Leibler ダイバージェンスが
漸近的に2つの状態の梅垣相対エントロピーを達成することを示した.
これを受けて筆者は,相対エントロピーの2つの引き数の一方の量子状態
のみに依存する測定により,同様の結果が成り立つことを示した.
この結果は,日合-Petz の定理の適用範囲を大幅に広げるものであり,
量子仮説検定等の問題を取り扱う上での基本的武器となることが期待できる.