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: 2種の大偏差型限界 : suitei-daihensa3 : suitei-daihensa3

はじめに

量子力学では注目する系に対して実験(測定)を行ったときの 結果(測定値)を決定論的に予言することはできない. しかし,その実験が再現可能であるならば, 統計的(確率的に)にその結果(測定値)を予測することはできる. しかも,その予測が正しいか否かチェックするすることも可能である. なぜなら,以下で述べるように量子力学における命題(予測)は 統計的アンサンブルに対してなされるものであるからである.

このように量子力学は統計理論としての側面があるにも関わらず, その統計的側面に注目した研究は以外と少ない. 本発表では量子力学系でのパラメータ推定に関する大偏差型評価に 関する研究を紹介する.

量子力学では議論の対象となる範囲のことを系(量子系)と呼び, 量子力学的議論のためには 各系に特定の Hilbert 空間(系の表現空間,以下 $ {\cal H}$ と記す.) を対応させることが必要である. ただし,必ずしも対応する Hilbert 空間は無限次元とは限らず, 系によっては有限次元になることもあり,この場合は単なる エルミート内積を持つ複素ベクトル空間を意味する. また Hilbert 空間 $ {\cal H}_1$ と Hilbert 空間 $ {\cal H}_2$ に対応する 2つの系を合わせた系(合成系)にはテンソル積空間 $ {\cal H}_1 \otimes {\cal H}_2$ が対応する.

先ほど量子力学は系に対して測定を行ったときにその測定値を統計的に 予測できると述べた.この予測は系に対する事前情報 (例えばある特定の粒子発生器から発生したなど) 及び測定方法を下になされる. 量子力学ではこの系に対して我々が持つ事前情報のことを状態と呼ぶ. 状態(すなわち事前情報)を用いて量子力学的議論を 始めるには状態を系に対応する Hilbert 空間 $ {\cal H}$ 上の密度作用素に 対応させることが必要である, $ {\cal H}$ 上の密度作用素とは $ {\cal H}$ から $ {\cal H}$ への線型作用素 で positive semi-definite かつその Trace が 1 となるものである. 以下,その集合を $ {\cal S}({\cal H})$ と表す. 特にそのrankが 1 となる密度作用素は純粋と呼ばれ, 対応する状態は純粋状態と呼ばれる. ここで $ {\cal S}({\cal H})$ は凸集合であることに注意されたい. 密度演算子 $ \rho_1$ 及び $ \rho_2$ に対応する状態の $ \lambda $ $ 1- \lambda$ ( $ \lambda\,>1$) の確率的混合を考える. この状態には密度演算子 $ \lambda \rho_1 + (1-\lambda)\rho_2$ が対応する. 確率的混合といわゆる量子力学的重ね合わせとは 異なることに注意されたい.

一方で測定については $ {\cal H}$ 上の恒等作用素 $ \mathop{\rm I}\nolimits $ の positive semi-definite 作用素による分解 $ \{ M_i\}$ が対応する. この分解 $ \{ M_i\}$ は POVM (正作用素値測度)と呼ばれる. そして系が密度作用素 $ \rho \in {\cal S}({\cal H})$ に対応する状態にあるとき POVM $ \{ M_i\}_{i=1}^k$ に対応する測定を行うと その測定値 $ i=1 ,\ldots , k$ は確率分布 $ {\rm P}^M_{\rho}(i):=
\mathop{\rm Tr}\nolimits \rho M_i$ に従う. より一般には測定値のなす集合が $ \Omega$ であるときは $ \Omega$ 上の POVM は $ \Omega$ の Borel 集合族 $ {\cal
B}(\Omega)$ からpositive semi-definite 作用素(のなす集合)への写像 $ M$ で以下の条件を満たすもので与えられる; $ M(\emptyset)= 0, M(\Omega) = \mathop{\rm I}\nolimits $. $ B_i \cap B_j= \emptyset $ となる Borel 集合の列 $ \{ B_i \}$ に対して, $ \sum_i M(B_i) = M \left( \cup_i B_i \right)$ が成り立つ.

したがって,個々の状態に対して適切に密度演算子を対応させると, 個々の測定を行ったときの測定値を確率的に予言することができる. それでは,個々の状態を密度作用素に対応させるには どうしたら良いであろうか. 一般的にはこれまでの経験から対応する密度作用素を決定するという 処方せんが用いられるが, 今までにない粒子発生装置や,本来あるべき事前情報の一部が欠ていた 場合などは,実際にその状態にある系に対する測定を行った上で, その測定値の統計的分布から推測することになる. 本発表のテーマである量子力学系におけるパラメータ推定では, 状態に対応する未知の密度作用素が密度作用素族 $ {\cal S}=
\{ \rho_{\theta} \in {\cal S}({\cal H}) \vert
\theta \in \Theta \subset \mathbb {R}\}$ に含まれていることが既知の上で,測定値から未知のパラメータ $ \theta$ を推定することになる. (本発表では未知パラメータが1つの場合のみ扱う.)

このような方法を用いて状態の密度作用素を推測するためには, その状態にある系を十分たくさん準備する必要がある. そのため $ n$ 個のシステムにわたって同一の状態 $ \rho_{\theta}$ が準備されることになる.このとき合成系 $ {\cal H}^{\otimes n}:=
\underbrace{{\cal H} \otimes \cdots \otimes {\cal H}}_n$ 上の状態は 密度演算子 $ \rho^{\otimes n}:=
\underbrace{\rho \otimes \cdots \otimes \rho}_n$ で記述される. 本発表では複数の系にまたがる量子測定も許した上で推定精度の限界を 大偏差型評価の視点から議論する.

本発表では長岡[1]によってなされた先行研究を踏まえた上で, 議論を進める.


Masahito Hayashi 平成13年7月16日